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HOME > 精道三川台中学高等学校 > みんなのぶどうの木

はじめに

『みんなのぶどうの木』 ~名前の由来~

   『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
    人がわたしにつながっており、わたしもその人に
    つながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』

(ヨハネによる福音書 15章 5節)

 この言葉はイエス・キリストが最後の晩餐の席で弟子たちに語ったものです。時間があまり残されていないことをよくご存知だったイエス・キリストは、まだ伝え残していた大切なことを弟子たちに言い残そうとしました。「何があっても私から離れないように、豊かに実を結ぶために私にしっかりつながっていなさい。」と弟子たちに話しかけました。

 そして、この言葉は今の世界に生きる私たちにも語られているのです。本学園に関わる全ての人が、しっかりと幹につながり、豊かな実りをもたらすように、との願いを込めこのコーナーを『みんなのぶどうの木』と名付けました。

モットー

9月『責任感』(小寺)

置かれた場所で咲きなさい-責任感-

 昨年12月に亡くなったシスター渡辺の書いた『置かれた場所で咲きなさい』がベストセラーになりました。彼女が悩んでいる時に指導司祭から手渡された詩の題から取った言葉です。一部分を紹介します。「タンポポは、タンポポのままでいいのです。バラは、バラのままでいいのです。それぞれが『咲く』ということ、それが大切!置かれた場所で咲くということです。」
「人のせい、環境のせい」にして不平、不満、文句を言っている間は、環境の奴隷です。置かれた状況の主人になることです。そこで自分の花を咲かせるのです。神が私をここに植えたことが正しかったと、あなた自身が証明してみせるのです。それは、わたし自身が変わることによってのみ可能です。時には、咲きたくても咲けない時もあるでしょう。その時は、根を下へ降ろして、根を張る時なのです。

 人を羨ましく思わず、自分の置かれた立場、状況で「すべきこと」を自分の使命と受け止め、真剣に精一杯果たすことです。言われて仕方なく義務を果たすことは、ある意味人任せで無責任な態度です。タンポポはタンポポらしく、バラならバラらしく行動しましょう。その一心に働く姿は輝いています。そんな人を神は高く上げます。与えられた仕事は、つまらない義務に思えても、あなたらしく生きる素晴らしい舞台です。人に見せるための仕事ではありません。そんな人に道は開かれていくのです。

7月『友情』(篠崎)

 「精道学園ほど生徒の力を信じている学校は日本にありません」と言ったら驚かれるでしょうか?しかしそう言って良いのではないかと思います。本校はオプス·デイの精神に基づいて運営されていますが、その創立者·聖ホセマリアは言います。「全ての人が金持ち·賢人·有名になれるわけではない...しかし全ての人 −そう全ての人− が聖人になるよう呼ばれているのだ」【拓125番】。「生徒の皆さん一人ひとりは聖人と言われるほどの立派な人物になる可能性を秘めている」私たち教職員はそう信じています。
 聖人と言えばマザー・テレサが有名です。彼女はインドの路上で極貧の生活を送る人々が、人生の最後に「愛された」と感じることができるよう彼らの臨終の世話をした人物でした。彼女にとって路上でひとりぼっちで生活する人々は「自分と関係のない他人」ではなく、「自分にとって大切な人」だったのではないかと思います。
私たち自身を振り返ってみましょう。毎日顔を合わす私のクラスメート1人ひとりは私にとってどんな存在ですか?自分にとって大切な人ですか?それとも「本当のところ、自分と関係のない他人」ですか? 彼ら1人ひとりの幸せを願っていますか?彼らの喜びは私の喜びですか?彼らの悲しみは私の悲しみですか?彼らにとって私は本当の友ですか?
生徒の皆さん、君たちは周囲の人たち一人ひとりのことを心から大切に思うことができる力を秘めています。勉強やスポーツと同じで、人のことを気にかける力は、日々周囲にいる人たちのことを考えようと努めることによって少しずつ身につきます。是非チャレンジし、出会う全ての人のことをいつも思いやることができる偉大な人間になってください。

6月『勤勉』(福田)

『勤勉』英語ではdiligenceindustryと表現します。industryは「産業」だけでなく、『勤勉』という意味も持っています。
 diligenceindustryも語源はラテン語。didis(apart)[分ける]から来ており、ligencelegere[選ぶ、集める]です。つまり、「せっせと選び分け・集める」⇒『勤勉』。industryindu(within)[中で]struere(build)[建てる、積み重ねる]です。つまり、「中でせっせと積み重ねる」⇒『勤勉』、さらに派生して『産業』となりました。おなじ「勤勉」でも微妙にニュアンスが違います。「選び分けて集めて自分のものにしていく」感覚と、「積み重ねて作り上げる」感覚と。「今月のモットー、『勤勉』を英語で言うと」と聞かれたら、私は個人的にはどちらも当てはまると考えます。自分のためにこつこつと努力するのも重要ですし、こつこつと積み重ねて成果を上げ、結果を出すのも大切です。
『勤勉』の対義語は『怠慢・怠惰』と辞書には記されています。これらの語は「全然仕事をしない、遊び呆けている」というイメージでわかりやすいですが、前記のdiligenceindustryを鑑みると、「違う方向に一所懸命になっていること」も『勤勉ではない』と言えるのではないでしょうか。本来ならしなければいけないことではないことに取り組んでいる、しなければいけないことを理解しないで別のことに一所懸命。「明日提出の課題に手をつけないで、3日後に提出の課題に一所懸命取り組んで満足感を得ている人」いませんか。「試験前に急に掃除の虫がうずきだして整頓を始める人」いるでしょう。6月はぜひ「今この瞬間にやらなければいけないこと」を把握し、「やるべきタイミング」で「やるべきこと」に取り組み、結果を出してみませんか。

5月『敬愛』(浅野)

 毎年高校1年生では3日間ほどのインターンシップを行っています。その間、手分けして学年担当の教員は生徒たちが働いているところを訪問して様子を伺いに行きます。例年そうですが、昨年度も生徒たちの評判は非常に高く、どの職場からも学校に対する高い評価をいただきました。外交辞令的な要素も入っていると思いますが、何か自信を得たようなその後の彼らの様子から、それだけではなかったなと感じました。学校が褒められて悪い気はしないのですが、聖ホセマリアなら次のようなことを仰ると思います。「彼らが褒められるような生徒になったのは親の影響の方が大です。」と。親御さんこそが、その子ともっと小さい時からずっと付き合い、育て上げてこられているので当然です。夏に中学生を交換留学で連れて行ったとき、姉妹校のホストマザーからこう言われたことがありました。「日本に帰ったら是非この子のご両親に伝えてください。とても良く教育されましたね。すばらしい子供ですよと。」さすが姉妹校の母親が言った子供の評価は親の評価でした。そうお伝えしても「うちの子は外ずらだけいいんですよ。」と予想通りの返事が返ってきましたが。今月のモットーは敬愛です。子供はもちろん大人もこれまでの人生において、親の影響は少なくないことはだれでも認めることだと思います。何かで褒められたり、表彰されたりした時には、本当は自分の親にも何か感謝の気持ちがあらわせればいいのですが・・。そういうことを気恥ずかしく感じる人は、毎日アヴェ・マリアのお祈りをご両親のためにするというのはどうでしょう。

4月『礼儀』(硲)

 私はサイクリングが趣味で、様々なところに自転車で出かけます。坂が多い長崎で自転車に乗るなんてきついだけでしょう、という声をたまに聞きますが「坂があるからこそ楽しい」と言うと、さらに怪訝な顔をされます。他の乗り物であればあっという間に越えてしまう峠も、自転車であれば息を切らせてやっと頂上に着きます。でも、登ってきた道のりを振り返ったとき、さらには目の前に広がる山々やその向こうに見える海を眺めたときの爽快感は何とも言えません。鳥のさえずりを聞きながら、あるいは無心にペダルを踏みながら、自分の力でこれだけの距離と高度を獲得したという事実が喜びに変わるのでしょう。時々他のサイクリストとすれ違いますが、見ず知らずの方であっても同志のような感じがして、会釈をしたり、手で合図をしたりして挨拶を交わすことがあります。また、初めて通る町でこれからサッカーの練習に行くと思しき何人かの小学生たちや部活動で走り込みをしている中学生たちとすれ違い、予期せず「こんにちは!がんばってください!」と声をかけられたことがあります。別の機会には、横断歩道で停車してくれた車にペコリとお辞儀をして渡っていく小学生たちの姿を見かけたこともあります。こういう光景に出会うと不思議と疲れも吹き飛んでまた元気にペダルを回すことができるものです。
今月のモットーは礼儀です。相手への思いやりに溢れた言葉や態度は人の心を暖かく爽やかにすることができます。声をかけられた人だけでなく、声をかけた人にも、そしてそのまわりにいるすべての人にも爽やかな風を送ってくれます。挨拶の"挨"という字は、「開く」という意味であり、"拶"は「迫る」という意味だと聞いたことがあります。つまり挨拶というのは「心を開いて相手に近づく」ことで、相手に爽やかな心をプレゼントすることとも言えるでしょう。新しいスタートの季節であるこの4月に、礼を尽くして爽やかな春風を送ることができれば素晴らしいなと思います。

中学生へ

指導司祭:硲恵介

9月の説教

 9月になりました。再び日常がスタートします。といっても、多くの人は毎日学校に来ていたし、授業や補習、そして部活動で忙しくしていたことでしょう。でも、ここはひとつ区切りを付けて「よっしゃ。再スタートしようか。」と気持ちを切り替えることができたらいいなと思います。
 さて、先日のことですが、すごい仕事をしている方の話を耳にしました。お名前は中村哲という70歳を超えた医師です。九州大学医学部を卒業後国内の病院で勤務されていましたが、ふとしたきっかけで40代の頃にインドの西側にあるパキスタンのさらに辺境の地ペシャワールに赴任します。そこで20年以上もハンセン氏病と闘って来ました。その地域一帯を2000年に大干ばつが襲います。赤痢患者が急増し、清潔な水にアクセスでないがために命を落として行く人々、特に幼い子供達の姿に直面します。追い討ちをかけるように2001年にはアメリカ同時多発テロとその報復のアフガニスタン空爆が始まります。干ばつと空爆によって中村さんが働いていたペシャワールにもたくさんのアフガニスタン難民がやって来ました。そのひどい有様を見て、彼はアフガニスタンへ拠点を移して活動を始めます。彼は医療活動を続けたのでしょうか?いいえ、彼は医師としてではなく、土木技師として働き始めました。もちろん全くの素人です。でも一番必要だったのは、薬ではなく清潔な水だったので彼自ら文献を紐解きながら井戸の掘り方、水路の引きかたを学んでいきます。彼が掘った井戸は1600本、拓いた水路は27㎞に及びました。これによって砂漠化していたアフガニスタンの広大な土地が緑で覆われ農地に変わります。食べるものに困る状況がゲリラ兵を生むという悪循環にも歯止めをかけるきっかけになりました。
 こんなにすごいことをしてきた中村さんですが、その人柄は穏やかで控えめで、全く偉そうには見えません。実に謙虚で誠実な人柄がにじみ出ています。人の役に立つということ、それは中村さんの言葉でいうなら「困っている人がいたら手を差し伸べる。—それは普通のことです。」さらに言います。「私たちがアフガニスタンでしたようなことを、誰もがするように求められているとは思いません。ただこの日本の日常生活で、誰もが「人として行うべき」ことに出会います。そのとき、自分の良心に従って考える。たとえば、友達がいじめられているとき、どうすればいいか。たとえば、お母さんが病気の時に、どうすればいいか。そのときどきに、良心に従って行動する。そういうことを私たちはみな、求められているのだと思います」私たち一人一人が、私たちの暮らしている日常で困っている人を見つけ、そして自分が手を差し伸べること。こうして世界は少しだけ、でも確実に平和になっていくでしょう。

7月の説教

 先日、機会があって大学の授業を受けてきました。その日の授業は、「東アジア諸国におけるソーシャルメディアの普及と若者文化」というものでした。固い授業名でしたが、内容をざっと言うと、日本・韓国・台湾・中国におけるソーシャルメディアの普及によって、東アジアという地域はそれぞれの国の特徴を持ちつつも、各国で同じような現象が生じているというものでした。具体的な題材として取り上げられたのは各国のアイドルたちでした。その在り方を社会的文化的背景を踏まえて読み解いていくという興味深い授業でした。普段私はアイドルなどとは縁のない生活をしているので、先生が授業で挙げる人の名前はジャニーズの誰それ、Exileがどうのということで、おそらく多くの人にとって当たり前なのでしょうが、私には初めて聞くことばかりで戸惑いました。ともかく興味深かったのは大学の先生がこのテーマに真剣に取り組んでおられることでした。他愛もないアイドルのお話、というわけではなく、それを題材として人間というもののある一面に迫る研究をしているのではないかと思いました。
 人間というのは本当に面白いものです。自分も人間でありながら、自分のことがよくわからないものです。自分は何のために生きているのか?この一生で何を成し遂げるべきなのか?死んだらどうなるのか?さらには、日々の生活の中で頭でわかっていることやすべきだとわかっていることがなぜできないのか?などなど疑問は次から次に湧き上がってきます。それらの疑問に光を当ててくれるのは、アイドルの研究もさることながら、聖書を読み込んでいくことにあると私は思っています。そこに描かれているのは今から数千年も前の人間の姿ですが、登場人物は非常に生き生きとしていて、悩みや苦しみに直面しながらも様々なことをクリアしていきます。その時に重要な要素として常に強調されるのは、その人と神様との関わりです。神様に祈りや犠牲を捧げながら、あるいは神様に不平を申し立てながらも最後には痛悔して多くの人が救われていきます。
 7月は夏休みの季節でもあります。私と神様との関わりかたを少し振り返って見て、できれば聖書などを少し読むことができたら、きっと人間というものの理解が深まるのではないかと思います。

6月の説教

 6月になりました。高総体、中総体の季節でもあります。勝負事ですから勝ち負けはハッキリしています。勝てば嬉しいし、負ければ悔しいものです。勝負事だけではなく、日々の生活の中でも、他人から言われた一言や自分に対する他人の評価などによっても嬉しくなったり、悲しくなったり、悔しくなったりするのが私たちの毎日であるとも言えます。
 ところで、そんな日常の出来事に一石を投じるような人について聞く機会がありました。日本でも有名なゴスペルシンガーのレーナ・マリアさんのことです。スウェーデン出身の彼女は生まれつき両腕がなく、左脚が右足の半分の長さしかないという障害を持って生まれました。でも、とても明るくて前向きな人です。パラリンピックにも水泳選手として出場もしました。その後彼女は音楽家として生きることを決意し、まず全米850か所でコンサートを開催し、1999年には大分国際車いすマラソン大会の開会式で美しい歌声を披露し人々を感動させました。そんな彼女の特技は何か想像できるでしょうか?彼女を幼少期から知る人は、どんな所にいてもすぐに何か楽しいことを見つけ出して喜んでいられることだった、と言います。「レーナ・マリアさん、あなたの喜びはどこからくるのですか?」マスコミの取材のたびに聞かれる質問に彼女はいつも同じように答えます。

「私の両親は、私を障碍者としてではなく一人の娘として育ててくれました。そしていつも『あなたは価値ある存在です。私たちはあなたをとても愛しています』と言って育ててくれました。けれども、それ以上に、神さまは私を愛してくださっていること、私には神さまの特別のご計画がおありになるから他の人と違う形に作られたのだ、ということを常に私に話してくれたのです。ですから、私は、この特別な体を神さまのために使っていただきたいと思っています。そうお祈りしていると、神さまがどんな時でも一緒にいて下さり、私の親友でいて下さることがわかって、いつも喜んでいることができるのです。」

 わたしの、そしてあなたの喜びはどこからくるものですか?勝つこと?褒められること?感謝されること?もちろん。でも、それらのどれよりももっと強い力で喜びを与えてくれる神さまとの友情ということを、祈りを大切にしながら味わいたいなと思います。

5月の説教

 5月になりました。近所を散歩していると若葉のとてもいい香りがしてきます。華やかで派手な香りではないけれど、「あ、5月なんだな」と思わせてくれる優しい空気のようなものです。5月は、カトリックの伝統で「聖母月」と言われています。聖母マリアも、華やかで派手なところは全くありませんが、人々を優しく包みこむ空気のようなものを持たれた方だと思います。その聖母マリアをこよなく愛したのが、オプス・デイの創立者聖ホセマリアです。彼の書物『道』の冒頭に次のような言葉があります。「あなたの一生が無益であってはならない。役に立つ何かを残しなさい。信仰と愛の光で全てを照らすのだ。」(『道』、1番)。この言葉を聞くと、当たり前の事実に思いが至ります。つまり、私たちが生きているこの時は二度と繰り返されることがなく、過ぎ去っていく一日一日は、唯一、オリジナルな一日であって二度と同じ日はない、ということです。それを無益に過ごしてはなりません。では、無益とはどういうことでしょうか?それは、あることが持っている本当の価値に気づかず、まるで「当たり前」のことであるかのように考えて過ごしてしまうこと、と言っても良いかと思います。
 私たちの身の回りには、どれだけたくさんの「当たり前」があることでしょうか。ご飯を食べること、学校に行くこと、学校で困難にぶつかること、悩むこと…。それら一つひとつに感謝することがもしできるのであれば、私たちは毎日たくさんの宝物に囲まれていることに気がつくでしょう。ご飯をつくる材料を提供してくれる人、そしてご飯を作って下さる人のおかげでご飯が食べられる。学校やそこで出会う人々の中で、ときには困難にぶつかりながらも、私たちは一人前になって人間としても成長していけること。そういうことに気がついた時はじめて、私たちは本当に感謝の心を持ち、ありがたいと思いながら誰かの役に立つことができるようになる気がします。そのためには新しい光で私たちの日常生活を見なければいけません。その光を「信仰と愛」と呼ぶことができるでしょう。信仰と愛で満たされていた聖母マリアを思い、5月の清々しい空気を吸い込みながら、今日もたくさん学んで発見していこう!と決心ができたら素晴らしいと思います。

4月の説教

 春になると思い出す俳句があります。それは高浜虚子の作品です。「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」。新緑の丘にひとり、春の風に吹かれて立つ少年の姿が思い浮かびます。その心には穏やかながらも熱い思いがあり、よし!春だ、いろいろな困難におそらく遭遇するだろう。でもそれに怯えることはない。自分はありったけの力と熱意をもってそれらに挑戦していこう。そんな気概に満ちている少年の姿が思い浮かぶのです。4月は新しいスタートの季節です。私たちを取り巻く環境も新しいものになりました。新しい教室、新しい先生、新しい下駄箱、新しいロッカー。それは再び襟を正して、よし、がんばるぞ!と気持ちを引き締める良いチャンスです。聖ホセマリアは言いました。「あなたの一生が無益であってはならない。役に立つ何かを残しなさい。」(『道』、1番)。意味のある一年にするために、早速今日から決心も新たに日々を充実させていきましょう。

高校生へ

オプス・デイより

オプス・デイHPの興味深い動画や記事を紹介します。

属人区長の書簡

6月4日の手紙
 一致して前進する家庭は、他の家庭を助けることができるし、逆に助けを願うこともできる。この手紙を通して、属人区長は、愛が生まれる場所である家庭への心遣いについて、いくつかの提案をする。
2017年 司牧書簡
 この司牧書簡は、去る1月に開催された一般総会の結論についての解説です。
5月10日の手紙
 フェルナンド・オカリス師はこのメッセージを通して、祈りと周囲の人への細やかな愛をもってファチマに旅する教皇様に同伴するように勧めます。
4月5日の手紙
 フェルナンド・オカリス師の2017年4月5日の手紙。聖週間を間近に控えて、キリスト者の生活の中で、イエス・キリストを中心に置くことを、属人区長は思い出させて下さいます。
1月31日の手紙
 属人区長フェルナンド・オカリス師からオプス・デイのメンバーへの最初の手紙。1月23日からの思い出を伝え、頂いた祈りへの感謝を述べ、故エチェバリーア司教を思い出されています。

教皇フランシスコ、オプス・デイ属人区長にフェルナンド・オカリス神父を任命

 2017年1月24日、教皇フランシスコはオプス・デイの属人区長にフェルナンド・オカリス・ブラーニャ神父を任命された。教皇様はその日に行われた属人区の選挙の結果を認証された。
 この任命によって、属人区オプス・デイの総代理であったフェルナンド・オカリス神父は、昨年12月12日に逝去したハビエル・エチェバリア司教を継ぎ、聖ホセマリアの第三番目の後継者となった。
 フェルナンド・オカリス神父は、スペイン内戦(1936~1939年)の際に亡命したスペイン人家族の8人兄弟の末っ子として、1944年10月27日、パリに生まれる。バルセローナ大学で物理学を(1966年修士)、教皇庁立ラテラノ大学で神学を学ぶ(1969年)。その後ナバラ大学で神学の博士号を取得(1971年)し、同年司祭に叙階された。司祭生活の最初の数年は、特に青年と大学生の司牧に専念した。
 1986年以降は教理省の顧問を務め、また聖職者省(2003年)と新福音化推進評議会(2011年)の顧問も務めた。1980年代には教皇庁立聖十字架大学(ローマ)の基礎神学の専任教授(現在は名誉教授)であり、この大学の設立に関わった一人でもあった。

属人区長エチェバリーア司教、帰天される


 聖ホセマリアの2代目の後継者としてオプス·ディを導いたハビエル·エチェバリーア司教がグアダルーペの聖母の祝日である2016年12月12日に帰天しました。84歳でした。本校には3度来校し、児童生徒、そして教職員を力強く励ましてくださいました。直近の来校は高等学校が開校した2009年春で、高校と中高駐車場の聖母像を祝福してくださいました。
 エチェバリーア司教は12月5日、軽度の肺感染症のためローマのカンプス・ビオメディコ総合病院に入院し、抗生物質による治療を受けていましたが、3日前に容態が急変しました。
 オプス・デイの属人区長補佐フェルナンド・オカリス師は、司教の最後の様子について次のように語っています。
 「パドレ(属人区長の愛称:お父さんという意味)はグアダルーペの聖母に祈っていました。一緒にいた1人がグアダルーペの聖母の御絵を持って来てほしいかパドレに尋ねたところ、パドレは次のように答えました。『その必要はありません。たとえ見えなくても、マリア様が一緒にいてくださっていることを感じていますから』」。

12月の手紙
オプス・デイ属人区長、エチェバリア師は待降節に関する12月の書簡で、慌ただしい雰囲気によって、ほとんど気付かないうちにぼうっとしてしまい、主がすぐそばにおいでになるという見地を喪失させる危険に注意するよう呼びかけておられます。

11月の手紙
いつくしみの大聖年閉幕について触れながら、属人区長は「神のいつくしみを個人的に受け入れ、同じように人々を受け入れること」を私たちに促す。

10月の手紙
オプス・デイの歴史の新たな年が始まる、10月2日を機に、属人区長は書簡で、「より多くの人々に、またキリスト教的生活の経験が無い人や信仰のない人たちに仕えるために、〈扇子を広げる〉時が続いている」と述べています。」

9月の手紙
ハビエル・エチェバリア師は、十字架について考察し、苦しみの道を歩む病気の方々と高齢者に付き添うことは、神に栄光を帰す慈しみの業であることを思い出させます。

8月の手紙
8月の書簡で属人区長は、“私たちの母であられるこの天の元后が、喜んで全き寛大さを持って、神のお望みに応えるため戦うようにと、私たちに促しておられます”と勧めて、忍耐を持って他人の欠点を忍ぶという霊的慈善の業を説明します。

7月の手紙
「キリスト信者の身分証明書は喜びです。」属人区長は今月の手紙の中で、教皇の言葉を繰り返してこう述べる。たとえ矛盾の真只中にあっても、私たちの喜びは、慰めを必要とする人々に対して、福音的なものとなるだろう。

6月の手紙
「人々に主を伝えるようにと神に招かれたことを喜んでいるでしょうか。」と属人区長は私たちに尋ねます。書簡で使徒職について話し、“私たちの心を満たしているもの、永遠の喜びの源であるものを、単純に表わすことです“と言っています。

5月の手紙
「5月は聖母への信心を深める月です」と属人区長が今月の書簡で勧めます。神の母の献身について福音書で黙想するとき、私たちの友だちと知り合いを聖母の御子に近付かせる必要性を感じることでしょう。

4月の手紙
「傷つける人を赦す、人間のなし得る最も貴いことの一つです。」4月の手紙で属人区長はこのように記し、手紙の大部分で赦しについて語る。

LinkIcon3月の手紙
属人区長は今月の手紙で、3月の様々な典礼の祝日に触れると共に、私たちキリスト者は平和を広める力を持っていることについて語る。

LinkIcon2月の手紙
2月の手紙でオプス・デイの属人区長は、この大聖年の四旬節を上手く活用するよう招く。そして、生者と死者のために祈るという、いつくしみの霊的行為の一つについて考察する。

LinkIcon1月の手紙
2016年最初の手紙で、オプス・デイ属人区長は、聖マリアについて、また良心の糾明を行うことの大切さ、そして教会で引き続くいつくしみの特別聖年について語る。

LinkIcon12月の手紙
*ただいま準中です。もうしばらくお待ちください。

LinkIcon11月の書簡
死についてのキリスト教的考え方は、人がその見知らぬ一歩に襲われがちな恐れに対抗する本物の手段となります。しかし、死は「容赦なく訪れるでしょう」(聖ホセマリア)。

LinkIcon10月の書簡
オプス・デイの属人区長は今月の手紙で、「日々オプス・デイをするため、私たちは熱心に祈っているでしょうか」という質問をして、オプス・デイの創立と教会の他の出来事について考えています。

LinkIcon9月の書簡
今月の手紙で、 ハビエル・エチェバリア師は十字架と喜びの関係について説明します。これからの数週間、家族のために祈りを強めるように勧めています。

LinkIcon8月の書簡
属人区長は8月の典礼の祝日に触れ、オプス・デイで過ごしている『家族のため』のマリア年を機会に、子供の愛情の教育における親の役割に関する考察を行なっています。

LinkIcon7月の書簡
今回、ハビエル・エチェバリア師は、各々の家庭内、他の皆が信仰とキリスト教的生活において成長するために助けを与えることの大切さを思い出させています。

LinkIcon6月の書簡
属人区長は、家族生活についての考察を続けています。今月は、家の物的なことや雰囲気を細やかに配慮することに注目しています。家庭では「真の観想的な会話」が可能です。

LinkIcon5月の書簡
ハビエル・エチェバリア師は、5月の手紙で、家族との関係にある「最も小さな溝も埋める」ために、祈りに頼るよう勧める。


興味深い動画

LinkIconありがとう!

ハビエル・エチェバリーア司教の生前の姿をビデオ『パドレ、ありがとう』で紹介します。1994年から2016年までオプス・デイ属人区長を務めたエチェバリーア司教は、2人の聖人の後を引き継ぎ、福音の教えと教会への忠実について語り続けました。そして、「互いに愛し合いましょう。もっと愛し合いましょう」と繰り返し教えました。(5分)

LinkIconソフィーの証言

ソフィーは25歳で結婚して間もなく、夫が事故に遭い、重い障害を負いました。「あなたは若い、別れるなら、今ですよ!」とソーシャルワーカーに言われましたが、残りました。


興味深い記事

LinkIconオプス・デイ、選挙総会

オプス・デイ属人区長を選ぶ、選挙総会は2017年1月23日からローマで開催されます。新しい属人区長は、12月12日に帰天されたハビエル・エチェバリーア司教の役務を引き継ぐことになります。

LinkIcon情報化社会において如何に内面性を涵養すべきか?

アラーム、メール、ツィッター、アラート、電話、コンピューターなどは、現実とのかかわり方を変えました。これらの手段が、日々の生活において、神と人々への奉仕に本当に役立つために何をすべきでしょうか。

LinkIcon慎ましさを育てる(1)少年期

人は、自己の内面をより深く知るに従って、慎ましさの感覚に目覚めて行くものです。自分自身を大切にする心(自己に対する尊敬)は、まず、家庭において学ぶものです。この記事が勧める事柄。

LinkIcon慎ましさを育てる(2)少年期と青年期

人は、自己の内面をより深く知るに従って、慎ましさの感覚に目覚めて行くものです。自分自身を大切にする心(自己に対する尊敬)は、まず、家庭において学ぶものです。この記事が勧める事柄。

LinkIcon徳の涵養による性格形成

キリスト教的な意味で成熟した人とは、自分の人生を自分で作り上げるため、神に何がまだ足らないかを心から尋ねる人のことです。そのときから、闘いは始まります。自分の努力で、そして主の助けを受けながら、徳を獲得するのです。

LinkIcon正しい自己愛

人格形成に関するシリーズ。今回の記事では、徳と欠点を含めて自分を知ることについて考えます。これは幸せになるために必要なことです。

LinkIcon人生の主役

反射的にする反応について、なぜそういう反応をするのかを説明するとき、「私はそういう人間だから」と説明するより、「私はこのように自分を作り上げたから」と言うべきである場合が多い。キリスト信者の人格鍛錬についての記事です。

LinkIconキリストのような人格

人格形成とキリスト教的な成熟に関する一連の記事を提供します。人格は日常生活にどのような影響を与えるか?人は変わることができるでしょうか?恩恵はどんな役割を果たしますか?

過去の記事(モットー)

平成28年度
3月『感謝』(渡邊)

 マザーテレサが、オーストラリアのアボリジニの居住区を訪れたときのことです。恐ろしく汚い家に住んでいる一人の老人に出会いました。だれからも完全に無視されて暮らしていたようです。マザーが「家の掃除と洗濯をさせてください」と頼んでも、「ほっといてくれ」と断られました。それでも、しつこく頼んで、ようやく認めてもらいました。掃除を始めると、ほこりまみれですが、とてもきれいなランプが出てきました。マザーは尋ねます。「ランプを灯さないのですか。」「どうせ、だれも来ないのだから、ランプは必要ないんだ。」と老人は答えます。マザーが「もし、シスターたちが訪問するなら、毎晩、ランプを灯してくれますか。」と聞くと、彼はうなずきました。
その日から、シスターたちは、毎晩彼のもとを訪れることを約束しました。シスターたちはランプを磨き、そして、毎晩それに火を灯したのです。
 二年が過ぎました。マザーはその人のことをすっかり忘れていましたが、オーストラリアのこの老人から感謝のメッセージが届きました。
「あなたが、私の人生に灯してくれた明かりはまだ輝いていると、わが友に伝えてくれ」(「マザーテレサ 愛のこころ最後の祈り」主婦の友社 要約)
 ところで、私たちにも、毎日そうじをしてくれたり、洗濯をしてくれたり、食事を作ってくださる方が身近にいます。その人のおかげで、私たちの人生にはいつも明かりが灯っています。今月は、ぜひ、感謝のメッセージを届けましょう。

2月『剛毅』(硲)

 ある人から教えてもらった話がとても印象に残っています。1962年、アメリカのマサチューセッツ州で一人の男の子が生まれました。彼の名はリック・ホイト。生まれるときにへその緒が首に巻きついていたために脳に障害が残り、生後9か月には医師から「一生、植物状態でしょう。」と言われます。しかしご両親はあきらめず、愛情深く育て、大学の研究者の助けも受けてコンピュータを使ってコミュニケーションをとることができるようになります。そんな彼に転機が訪れます。あるとき交通事故で全身麻痺になったスポーツ選手を応援するための8㎞のチャリティーマラソンが地元で開かれることになりました。その時リック君は言います。「父さん、僕も出たい!」お父さんのディックさんは無理だと思いました。リック君は車椅子を自力で動かすことは当然できないし、車椅子を押すディックさん自身はスポーツマンとは言い難いお腹の出たおじさんでしたから。でもリック君の熱意に押されて練習を始め、大会当日にはなんと完走してしまいます。リック君はひまわりのような笑顔で「父さん、走っているとき、僕、自分が障害者じゃなくなったような気分になったよ!」と言ったそうです。それから二人の人生が変わります。チームホイトの誕生です。トライアスロンでは、ゴムボートのリック君を引っ張りながら4㌔の水泳、ハンドルバーに乗せて180㌔の自転車、車椅子を押して42.195㌔のフルマラソンにも挑戦し、16時間14分という記録を残します。まさに親子の絆が奇跡を起こします。人は大切なもののために大きな力を発揮します。家族、友人、そして神さまのために、自分にとってかけがえのないことのために、少しキツイことや面倒くさいことを頑張ってみる。今月のモットーは剛毅です。朝決めた時間にパッと起きること、宿題やお手伝いを手抜きせずに丁寧に果たすこと、元気に挨拶すること、そんな小さなことを頑張ってみたいと思います。するといつか大きな奇跡の主人公になることができるでしょう。

1月『清貧』(浅野)

 It's a little bit motainai. 以前英語を教えておられたアントニオ先生が、ある時にふと口にされたフレーズです。モタイナイと聞こえたのですが、もったいないということを言いたかったのは、前後の意味から明らかでした。そういえば、「mottainai運動」というものをケニアで推進しておられた女性がいて、「もったいない」という言葉は日本語に独特なもので、英語に上手く訳すことができないということを聞いたなと、その時に同時に思い出しました。もったいないという気持ちは日本人が大切にしてきた感性と言えるでしょう。今月のモットーは清貧です。清貧も詫び寂びに代表されるような日本人が好みそうな感性につながりそうです。清貧はもったいないという気持ちをもつことの結果でしょうか。清貧というと、質素な生活を思い浮かべます。無駄遣いをなくし、必要でないものをあまり多く持たない生活と言えるでしょう。当然、清貧にももったいないことを極力避けようという気持ちも含まれているでしょう。しかしその一方で、もったいないのでなかなか物が捨てられないで、家の中は普段使わないものでいっぱいというようなこともあり得ます。どこか違うところがあるかもしれません。聖ホセマリアは「清貧は精神の問題である」と言いました。ものを持つ持たないに関わらず、ものにとらわれない心が清貧の精神を持っているというわけです。もしかしたら、もったいないからと手放さずに自分がしまっておくよりも、誰かが利用してくれた方がもったいなくないと考えると、もったいないは清貧に近い意味になるのかもしれません。

12月『寛大』(田端)

 年末は、日本中どこへ行っても「クリスマス」を祝うようになって来ました。ただ、クリスマス本来の意味が忘れ去られ、プレゼントを交換したりするだけのイベントになってしまっていることも少なくないようです。
「その頃チェザル・アウグストウスから、全世界の人口調査を命じる詔勅がでた。(中略)ヨセフはダビドの家系でありその血統なので、すでに懐妊していたマリアと共に、名を届けるために、ガリラヤのナザレトの町からユダヤのダビドの町ベトレヘムに来た。そこにいる間に、マリアは産期満ちて、初子を産んだので、布に包んでまぐさ桶に子を横たえた。宿屋に部屋がなかったからである。」(ルカ 第2章 1〜7節)聖ルカはイエス・キリストの誕生の次第をこのように簡潔に記述しています。神であり、宇宙の王であるお方が、人としてこの世にお生まれになったのは、なんと馬小屋でした。
 神様は、お生まれになられる時から、ご自分の行いをもって、私たち一人ひとりの心に静かに語りかけておられるかのようです。ご自分がこの地上に生まれるに当たって、壮麗な宮殿や暖かな宿を準備することもできたはずです。しかし、そうはなさらず寛大な心を私たちに優しく見せてくださいます。今月のモットーは「寛大」です。幼子イエス・キリストを思うと、私たちも毎日の生活の中で周りの人たちに対してもっと惜しみない心で接したり、幸せを届けることができるような気がします。

11月『秩序』(硲)

 今月のモットーは秩序です。物事の正しい順序、という意味で理解することができます。
 さて、ある大学で行われた授業の話を紹介します。教授は「大きな壺」をとり出し、教壇に置きました。 そして、その壺の中に、一つ一つ石を詰めていきます。壺がいっぱいになるまで石を詰めてから、教授は学生に聞きました。「この壺は満杯か?」 学生は皆「満杯です」と答えました。「本当に?」 教授は、教壇の下からバケツに入った砂利を取り出します。 そして、砂利を壺の中に流し込み、 壺を揺らしながら、石と石の間を砂利で埋めていきます。 教授はもう一度学生に尋ねました。「この壺は満杯か?」学生は答えられません。しばらくして、ひとりの学生が「多分、満杯ではないでしょう。」と答えます。教授は「そうだ!」と笑い、 今度は教壇の下から砂の入ったバケツをとり出しました。 砂を石と砂利の隙間に流し込んだ後、 教授はもう一度学生に尋ねます。 「この壺は満杯か?」 学生たちは、今度は声をそろえて「いいえ」と答えました。 教授は水差しをとり出し、壺のふちまでなみなみと水を注ぎました。「私が何を言いたいか、わかるかい?」 一人の学生が答えます。「どんなにスケジュールが忙しい時でも、最大限の努力をすれば、 いつも予定を詰め込むことが可能ということです。」確かに。そう理解することもできますね。ところが、この教授は別のことを学生たちに教えようと思っていました。「そうではないんだよ。」と教授は言います。「重要なポイントはそこではないんだよ。この例が私たちに示してくれている真実は、大きな石を先に入れない限り、 それが入る余地は、そのあと二度とないということだ。 ここでいう大きな石とは君たちにとって一番大切なものだ。それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと君たちは、それを永遠に失うことになる。もし君たちが小さな砂利や砂・・・ 、つまり自分にとって重要度の低いものから自分の壺を満たしたならば、 君たちの人生は重要でない何かで満たされたものになるだろう。 そして大きな石、つまり自分にとって一番大切なものに裂く時間を失い、 その結果、それ自体を失うだろう。」
 私たちの時間は限られています。物事を正しい順序で行っていくことは、単に整理整頓の問題ではなく、私たちの人生そのものに関わってくることです。ちょっと立ち止まって振り返ってみたいと思います。

10月『誠実』(坂井)

 千利休といえば、わび茶の完成者として知られています。弟子も多く、中でも7人の高弟は利休七哲と呼ばれています。
さて、茶人として名声も高く、権威もあった利休ですが、ある時、豊臣秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居(ちっきょ)を命じられました。利休と親交の深かった諸将が秀吉を憚り、訪れることすらしない中、利休七哲の細川忠興と古田織部だけは堂々と見送ったと伝えられています。同じく七哲の蒲生氏郷は見送りに行かなかったことを悔やみ、後に利休の息子を一時期かくまっていることを合わせて考えると、見送り一つにも、いかに勇気がいったことであるかが分かります。師と仰ぐ人が謹慎を命じられているのですから、例えいかなる政治的な事情があっても、一茶人として、一目見送りたいと考えたのでしょう。忠興や織部の信念、誠実さが見てとれるエピソードであると思います。
今月のモットーは誠実です。人は、必ずしも正しいと思う通り動けません。だからこそ、本当に自ら正しいと思った通りに行動できたとき、満足感を味わうのだと思います。小さなことから始めましょう。身近な人に、正直に、思いやりを持って接する。ときに、様々な状況に流されてしまい、思った通りに行動することが難しいこともあるかも知れません。失敗したことを人に報告するのは簡単ではありません。しかし、大抵の場合、報告することによって伝わるのは、この人は誠実だ、素直な人だ、ということです。
ちなみに、秀吉は見送った二人について、特に咎め立てはしなかったそうです。

9月『責任感』(廣田)

 こんな話を読みました。昔、フランスのある貧しい村で起こった 不思議な出来事についての物語です。≪その村の教会に長く務めた神父が、遠くの村の教会に赴任することになりました。
 その神父への長年のお礼として、貧しい村人全員が、貴重なワインを一杯ずつ持ち寄り、樽に詰めて、神父へプレゼントすることになりました。そこで、出発の前日、集会所に次々と村人がやってきて、置いてある樽に、一杯のワインを注いで帰っていきました。そして、満杯になった樽を、村長が神父に贈呈したのです。ところが、赴任地の村に到着した神父が、その樽を開けて、ワインを飲もうとしたところ、不思議なことが起こっていました。そのワイン樽の中身が、水になっていたのです。なぜ、このような不思議なことが起こったのでしょうか。実は、貧しい村人の全員が、貴重な一杯のワインの代わりに、そっと一杯の水を樽に注いでいたのです。そして、全員、自分一人ぐらい正直にワインを注がなくとも大丈夫だろう、と思っていたのです。≫この話は、片田舎の小さな村での出来事ですが、私たちの中でも起きそうな出来事です。「一人ひとりが責任をもって、事にあたる」を目指しながら、なぜか、「集団的無責任」が生まれてしまう。9月のモットーは責任感。体育祭をはじめ、毎日の掃除、係や日直の仕事、課外クラブでの役割など、「自分一人ぐらいしなくても、いいだろう。」という気持ちがないか、振り返ってみよう。

7月『友情』(福田)

『友情』という言葉を見るとき、何を思い出すだろうかと考えを巡らせてみました。
まっ先に頭に浮かんだのは中高時代に毎朝の礼拝で歌った讃美歌の中の1つでした。
「いつくしみ深き 友なるイエスは、 罪咎(とが)憂いを 取り去りたもう。
こころの嘆きを つつまず述べて、 などかはおろさぬ 負える重荷を。」
讃美歌の312番、カトリック聖歌集657番です。初め、この歌詞の意味が分りませんでした。
中1ですから、「『咎』って何?」「『などかは下ろさぬ、負える重荷を』ってどんな意味?」と考えたのは当然ですが、もうひとつ考えたのは「イエス・キリストは『友』?」でした。
(咎‥‥過ちやしくじり、などかは下ろさぬ、負える重荷を‥‥背負っている重荷をどうして下ろそうとしないのか?  とのちに知りました。)
中学生の私が持つ『友』のイメージと『主イエス・キリスト』がどうしても合わなかったのです。
小学生の皆さん、中高生の皆さん、「本当の『友』とは?」「『友情』の核心って何?」と考えたことはありませんか?私は何度もあります。「友人に裏切られた」と感じたときや、「何であんなやつと友達なんや」などと考えたときが幾度となく‥‥。
大人の方は、今、ツッコミを入れていることでしょう。そう、「友人に裏切られた」、「何であんなやつと友達なんや」などと考えた私自身が「本当の友情」を持ち合わせていなかったのです。
『友情』を求めている時点で、それはもう『友情』ではなく『私情』なのでしょう。
『友情』を持ち合わせていない人物に「本当の友」はできません。
「いつくしみ深き 友なるイエスは、かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも、祈りにこたえて 労(いたわ)りたまわん。」

6月『勤勉』(岸下)

 「勤勉」私はこの言葉で、ある少女の活動を思い出します。
 ある少女とはマララ・ユスフザイです。彼女は武装勢力パキスタン・タリバンに対して女子校の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続け、英国メディアから注目されました。しかし、2012年10月9日に衝撃的な事件が起きました。パキスタン北西部のスワト渓谷で武装勢力パキスタン・タリバンが中学校のスクールバスを襲撃し、タリバンを批判していたマララ・ユスフザイが頭部と首に計2発の銃弾を受け重傷を負いました。その後、奇跡的な回復に至りました。
 なぜ、彼女は自身の命の危険を顧みず訴え活動を続けたのでしょうか?
 そこには、彼女のあるスピーチから伺えます。
「私は訴えます。自分自身のためではありません。すべての少年、少女のためです」
「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。
教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト」
彼女は自分のためだけでなく、人の役に立つことと世界を変えるという大きな志があったからです。この姿勢が、彼女を愚直なまでに突き動かしたのです。
 しかし、周囲を見ると自分のための人生に固執している人が多くみられます。私たちは自分の持っている能力を他人のために生かしてこそ、人生が真の意味で「自分のため」になるのではないでしょうか。今、置かれている状況を考え、勤勉に取り組む姿勢をもう一度見直してはいかがでしょう。

5月『敬愛』(栁原)

 小学6年生の時、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」を1週間で覚えるという宿題が出されました。みんな一生懸命になって覚え、1週間後にはクラス全員が暗唱できるようになっていました。その時覚えた「雨ニモマケズ」が今でも記憶されていて、ふとした時に思い出すことがあります。そんな時、以前はまったく気にならなかったのに、今になって味わえるようになった言葉があることに気づきます。
 たとえば小さなことでいらいらした時に「欲ハナク 決シテ怒ラズ イツモシヅカニワラツテイル」という言葉を思い出し、穏やかで心の寛い人間にはまだまだなれていないなあと反省します。また、自分だけ損をしたように感じた時には「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」という言葉が思い出されます。一つの詩の中に見習うべき姿がたくさん描かれているように感じます。
 この詩は「斉藤宗次郎」というクリスチャンの方をモデルとして作られたそうです。「ミンナニデクノボートヨバレ」とあるように、この詩が作られた頃、クリスチャンはまだ迫害を受けることもあったようです。そんなつらい中でも周囲の人への愛情を忘れない姿勢が宮沢賢治の心にも深く残ったのではないでしょうか。
 5月のモットーは「敬愛」。周囲の人への尊敬と愛情の心を持つヒントがこの詩には詰まっているように思います。そして、どんなときも謙虚な心を忘れずにいたいと思います。
 「ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ」。

4月『礼儀』(白根)

 「礼儀正しい人」と聞くと、「きちんと挨拶ができる人」「その場に相応しいマナーが守れる人」「正しく敬語が使える人」などが頭に浮かびます。当たり前のことで、ほぼできているようにも思います。
 さて、ある経済新聞のコラムに次のようなことが書かれていました。「わざとらしいふるまいは、どれも礼儀とは呼べない。礼儀とは習慣であり、自ずと表れる行為である」。この下りにしばし考えさせられました。「わざとらしい」ことはしないにしても、行為を目的とした形だけのものも「礼儀」とは言えません。しかし、日常を振り返ると、相手が見えたから条件反射で挨拶をする、周りの人がマナーを守っているから無意識のうちに自分も従う、相手が目上だから流れで敬語を使う、というような場面に少なからず思いいたります。
 感謝や相手を敬う気持ち、思いやりなど、相手への思いが溢れて自ずと言葉や行いに表れる。そしてその結果、礼儀正しい振る舞いとなる。身につける礼儀作法は、このようにありたいものです。
 神様に、そして家の人に感謝して「いただきます」。今日も互いに頑張ろうと「おはよう」。人と接する各瞬間に、心の中で言葉にならないとしても、感謝や相手を敬う気持ち、思いやりなどを持っていることが、本物の礼儀を身につけていく上で不可欠です。形ももちろん大切です。それが心の表れであるからこそ、心温まり、毎日がより一層豊かなものになる、これが礼儀の真髄と言えるでしょう。

平成27年度
3月『感謝』(硲)

 聖ホセマリアの著書『道』に次のような言葉があります。「毎日、幾度も心を神に上げて感謝するくせをつけよう。神があれやこれやをくださるから、軽蔑されたから、必要なものにも事欠くから、あるいは必要なものはちゃんとあるから。」(『道』268より)。良いことに感謝するのは理解できます。しかし、軽蔑されたら悲しくなり、必要なものがなければ困ります。一見して良いとは思えないことにもなぜ感謝することができるのでしょうか。そんな疑問がわいてきますが、答えのヒントになるような詩に出会いました。「まばたきの詩人」と呼ばれる水野源三氏の詩を読んだのです。水野さんは9歳の時に赤痢にかかり、脳膜炎を併発してその後遺症のために手足の自由を奪われ、ついには話すこともできなくなります。しかしある時友人から聖書を読み聞かされ次第に周りの人がびっくりするほど明るくなります。やがて水野さんは詩や短歌を作り始めました。お母様が五十音表を示し、水野さんがまばたきで合図して音を一つ一つ拾い、書き表していくのです。そんな水野さんが作った詩が「有難う」です。有難う/物が言えない私は/有難うのかわりにほほえむ/朝から何回もほほえむ/苦しいときも 悲しいときも/心から ほほえむ。おそらく水野さんは、声に出して感謝を伝えたかったでしょう。お母さんがご飯を作ってくれた時、ご飯を食べさせてくれた時、汚れた服を替えてくれた時、などなど。朝から晩まで「有難う」と言いたいことはたくさんあったでしょう。そうして彼は一所懸命微笑んでいました。
 軽蔑された時、私にはもっと謙遜になる機会が与えられました。必要なものに事欠くとき、当たり前だと思っていたものが当たり前でないことに気づく機会が与えられました。それらを一つ一つ、心静かに神さまの前で思い出すとき(つまり祈るとき)、私たちは一日の間に何度も感謝すべきことに出会っていることに気がつくものです。(水野氏の詩は作家、中井俊已氏のメールマガジンを参照しました。)

2月『剛毅』(渡邊)

 「英雄的な瞬間。さあ、跳び起きる時刻だ。ぐずぐずせずに、祈りながら起き上がれ。英雄的な瞬間は、からだを弱めることなく、意志を強くする犠牲である。(道206)」
聖エスクリバーは多くの人に「朝の英雄的瞬間」を勧めた。朝、起きる時間がきたら、布団の中でぐずぐずしてないで、「跳び起きよう」というのだ。しかし、ここで少し疑問が生じる。この「跳び起きる」という動作は、いったいどれくらいの時間をさしているのだろうか。一、ニ秒のことを言っているのだろうか。それとも一、ニ分でもオーケーなのだろうか。特に冬の朝の布団の中と外の温度差を考えると、一、ニ分でも十分に英雄的に思える。
この疑問に対する答えは、「英雄的な瞬間」の「瞬間」という言葉にある。「瞬間」とは、つまり、まばたきする間。おそらく一秒以内だろう。一分、ニ分では「瞬間」とは言えない。つまり「朝の英雄的瞬間」とは、まばたきの速さで起きようということなのだ。これはよく考えると大変なことだ。しかも、一日のうちで一番意識がもうろうとしているときに、やらないといけないのである。しかし、逆に考えると、一日で一番難しい戦いに勝つことができれば、そのあとやってくる様々な自分との戦いを有利に進めることができるだろう。だから、まず初戦に勝とうということなのだ。今月のモットーは剛毅。言い訳せず、弱音をはかず、まず初戦に勝とう。

1月『清貧』(田端)

 昨年、新語・流行語大賞にノミネートされた「ミニマリスト」は、最小限のモノで生活をする人のことを指すそうです。「ミニマリスト」は、自分に必要なモノがわかり大事にする人、大事なモノを大切にするために必要でないモノを減らすことを心がけている人です。
 今月のモットーは「清貧」。人は、ついつい色々な物に心を奪われ、本当は必要のない物まで求めてしまい、それに心が縛られて窮屈になる傾向があります。
 聖ホセマリアはおっしゃいます。『真の清貧は、持たないことにあるのではなく、執着しないこと、物に対する支配権を自発的に放棄することにある。「道632」』
 聖ホセマリアは生前、個人的に使っている物を自分の物にせず、ご自分の部屋には毎日使う必要最低限の物しかなかったそうです。またある時は、本に挟んでいた「マリア様の御絵」に執着していることに気づかれ、その御絵の代わりに紙切れを使われるなど、小さなところにまで気を配られていたという話を聞いたことがあります。
 物や情報が溢れている現代、私たちは、心と体が欲しがる物を飽くことなく追求することに振り回され、自分の、そして周りにいる人の必要に気づくことができなくなることがあるかと思います。
 次々と新しい物を求めるのではなく、自分で使う小さいモノにも記名をし、大切に使うことを心がけることで、心がより自由になり、精神的に豊かになることができるのではないでしょうか。

12月『寛大』(白根)

 聖書に次のような言葉があります。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(マテオ5章39~42節)
 キリストはこのような例えをもって、肉体的或いは精神的苦痛や金品の譲渡、疲労など、通常は避けたいと思うようなことを積極的に受け入れなさいと教えています。その理由が続きにあります。
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(中略)あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マテオ5章44~48節)
 目先の損得に目を向けると耐えがたく思われるようなことでも、相手も神様にとっては掛け替えのない大切な子どもであり、ゆるす、与える、付き合う、などで神様を喜ばせることができる。神様を喜ばせるために与えられた貴重なチャンスだ。と捉えることができれば、不快に心を荒らされず、心の平和を保つことができそうです。
 そればかりでなく、日常的に、人の失敗を咎めない、気前よく貸す、進んで手伝う、などを心がけて人と接することは、建学の精神にある「周りの人々にその幸せを与える」ことの具体的な形の一つにもなります。

11月『秩序』(坂井)

 「次にお待ちのお客様。こちらのレジへどうぞ。」
 レジ待ちで並んでいるとき、このように言われた経験はございませんか。1つのレジで1列の場合は問題ありませんが、あるとき、2つのレジで2列で並んでおり、私は一方の列の2番手でした。3つ目のレジが増えたので、もう一方の列に並ぶ2番手の方とともに一瞬の間を共有した後、「どうぞ」と譲ると、「いえ、あなたの方が先でしたからどうぞ。」 紳士的提案を却下された私は、う~む、さすが日本人などと思いながらレジに進んだ次第です。
「秩序」は「ものごとの正しい順序」と易しく言い換えることができます。正しいを「あるべき」と言ってもいいでしょう。秩序よく物事を行おうとしたら、まず、何が正しいのかを知らなくてはなりません。次に、自分にとって楽ではないことでも、正しいならそちらを選び実行する。この2段階プロセスがあると思います。前者も究めようと思えば深そうですが、やはり当面の課題は後者でしょう。身の回りのものが何処にあるべきか、どのように時間を使うべきかなど概ね把握していることでも、そのように正しくあれないのが実状です。それぞれの年齢、職業や立場に応じて「正しい順序」を目指すことが今月のモットーです。しかし、自分に「正しい」ことを要求し続けるというのは随分と堅苦しいのではないか。だから、たまに息抜きをいれることもまた、秩序正しい行いであると言えるのです。

10月『誠実』(廣田)

「ありがとう、ごめんなさい、もっと助けてください」
 これらの言葉は、福者アルバロが神に向かって繰り返し使っていた言葉つまり祈りです。今月のモットー「誠実」を考えると、私たちもこの言葉をもっと使うことが必要だと感じました。
 誠実な心で日々の自分について振り返ってみましょう。なんとなく当たり前だと思ってしまっているのか、いつもお世話になっているあの人、この人へのお礼の言葉が言えていない。「ありがとう」「ありがとうございます」と言ってみましょう。恥ずかしがらず、お父さんやお母さんにも。
 様々な人に迷惑をかけていないだろうか。きつい言葉を投げかけていないかな。すべきことをせずに、したいことだけをしているんじゃないか。誠実な心で振り返ってみましょう。「ごめんなさい」というべきことがどんどん出てくるかもしれない。
 だから、「もっと助けてください」「もっと教えてください」「もっと説明してください」と遠慮なくいってみよう。間違いなく『私たちは弱いです』自信を持ってそう言えます。だから、誠実に「ありがとう、ごめんなさい、もっと助けてください」といえるとき、『私たちは強いです』。
 マザー・テレサは言いました、「大切なのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。身近な小さなことに誠実になり、親切になりなさい。その中にこそ私たちの力が発揮されるのですから」と。

9月『責任感』(福田)

 9月のモットーは責任感。思い出す聖書の箇所があります。マタイによる福音書第1章18節からです。『母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒に生活を始める前に身ごもっていることが分かった。夫ヨセフは正しい人だったので、このことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。すると、天使が夢に現れ、その子が聖霊によって宿ったことを伝えた。夫ヨセフは主の天使が命じた通り妻を迎え入れた。』という内容です。
 中学時代の礼拝で読み、責任感という内容の説教がありました。中高6年間を通して数回同じ個所を読む機会がありましたが、あるときふと頭に浮かんだのは、「ヨセフが妻を迎え入れたのは、妻への、また、信心での『責任感』だけだったのだろうか」ということでした。私も大人になり、結婚して、責任ある仕事や立場を与えられるようになりました。今思うのは、『責任感』の先に『あたりまえ』という感覚があるのではないかということです。『責任感』と『あたりまえ』との差は何か。同じ役割・仕事を果たすのに『責任感』で果たすのと『あたりまえ』に果たすのとでは本人のとらえ方が変わってくるでしょう。ヨセフは天使のお告げにより『あたりまえ』と思うようになったのではないでしょうか。
 2学期が始まり、夏の課題・宿題の提出があったり、体育祭ではそれぞれに与えられた仕事・立場で責任感を発揮しなければいけません。日ごろ培った責任感を発揮するとともに、与えられた仕事・立場を『あたりまえ』に果たすことを期待しています。

7月『友情』(岸下)

 ある、ラガーマンの話です。彼は大学でラグビー部に入部したものの、最初からけがとの闘いでした。調子を上げれば、けがをして、リハビリを経て、復帰をする。また、けがをしてリハビリをする。その繰り返しでした。そうしているうちにグラウンドに立つことさえ怯える日もあり、繰り返す挫折の中で、プレイヤーをやめてトレーナーになろうと決意します。一番仲のよかった同じポジションの先輩に何気なく、愚痴をこぼしました。「選手をやめて、トレーナーになろうと思います。このままやっても、4年まで身体がもちそうにないですから」その先輩も同じくけがをしていました。リハビリもずっと一緒でした。同じポジションのため、ライバルで、心からお互いを高め合える仲間だった。そんな彼が、初めて、怒鳴った。「なに、言ってんだよ。お前からそんな弱気な言葉は聞きたくない」二度とそんなこと言うんじゃないぞ、と涙ながらに睨みつけました。私はこの先輩が本気で心からお互いを高め合える仲間だからこそ、真正面から伝えたのだと思います。つまり、「仲良し」だけでは本当の友情はうまれません。はっきりと相手の非を指摘できるのが責任ある友情です。自分のことより、相手のことを本気で思いやる心の強さと行いを身に付けていって欲しいと思います。

6月『勤勉』(栁原)

 ある研修会で聞いた話です。

あなた自身について、次のような質問をされたらYes、Noどちらと答えるでしょうか。
  ○あなたは自分が人柄のよい人間だと思いますか
  ○あなたは自分が価値のある人間だと思いますか
  ○あなたは優秀な人間ですか
  ○今の自分に満足していますか
 いろんな国の高校生にこの質問をしたところ、中国では約7割、アメリカでは約8割の高校生が、いずれの質問にも「Yes」と答えたそうです。それに対し、日本の高校生は約3割しか「Yes」と答えていませんでした。
 研修会でその話をした講師は、「グローバルな時代を生き抜くために日本人としての弱点」と指摘しながらも、「日本には外国に負けないすばらしいものがあるのだから高校生には自信を持ってもらいたい」と話されました。そのすばらししいものの筆頭に「勤勉」を挙げられました。
 日本の電車は他の国に比べて事故が少なく、時間どおりに動きます。飲食物において、異物混入が大きく報道されるのは、日頃安心・安全な食生活ができているからでしょう。日本において当たり前と思われている多くのことが、実は日本人の「勤勉な態度」によって維持されていると言えそうです。
 ただし「勤勉」という徳は自然に身につくものではありません。日頃から頼まれたことに対して一所懸命取り組み、頼んだ人に喜んでもらえるよう尽す行動を続けることで身につきます。仕事や勉強だけでなく掃除、家庭での手伝いなどの小さなことにも一所懸命取り組み、「勤勉」の徳を磨いていきましょう。

5月『敬愛』(浅野)

 以前パウロ・グリンというオーストラリア人の神父様から、本校でお話をしていただいたことがありました。この方は、長く日本で活動され、永井隆や北原怜子という日本でもあまり知られていない人について、英語で小説化して海外に紹介されています。彼が神父になろうとしたきっかけは、一人の神父様の死顔を目撃したことでした。インドネシアの東チモールというところでイスラム教徒とキリスト教徒との紛争に巻き込まれたのですが、微笑みながら死んでいたのです。同時に彼はそのとき以来平和について考えるようになりました。世界の平和のためには異なる考え方を持つ人々のことを理解することが不可欠であることを力説されました。中でも私が一番印象に残った言葉は、「世界に平和を叫んでも、自分の家庭の中で仲違いをしているような人にそういう権利はありません」というものです。聖書の中にも「目に見える兄弟を愛さない者が、どうして目に見えない神を愛することができようか」という文言があります。今月のモットーは敬愛ですが、同じようなことがいえるのではないかと思います。「人を愛さねばならないとだれもが言いますが、自分の家族や身近な人を愛せないなら、そういう権利はありません」と。間近にある「かもめ祭り」、多くの人に来て喜んでいただきたいと思います。そのためまず私たちが家族や友達に対する愛情をあらわしていくことができれば大成功になると思います。

4月『礼儀』(硲)

 四月になりました。グラウンドから望むことができる三川の山々の生命のあふれ出のような新緑と、中学高校校舎へと続く斜面の弾けるばかりの八重桜が眩しく目に映ります。天気の良い春の一日はただそれだけで私たちに幸せを運んでくれます。さて、新しい生活の始まったこの時期に思い出してみたいことがあります。それは礼儀(マナー)についてです。それは「堅苦しいこと、面倒臭いこと、形式的なこと」でしょうか?そうではありません。礼儀は誰もが快適に安心して暮らせるように、社会の中で自然に生まれてきた人間の知恵です。きちんと考えて行動すれば、誰でもそのマナーに行き着くことができます。礼儀の原則は「相手が気持ちよく過ごせること」ですから「思いやり」と通じるものがあるわけです。朝、顔をあわせると「おはようございます!」と挨拶をします。これは「元気ですよ!」「今日もいい一日になるといいですね!」という印です。何かをしてもらったら「ありがとうございます!」と言います。言われた方も嬉しくなりますね。このように、挨拶で「見えない心を見えるようにして」手と手をつなぐように、言葉を通して「心と心をつないで」いきます。「礼儀」は法律に書かれた規則ではありません。心に書かれている「心のルール」です。その心から「思いやり」が生まれ、「相手がきもちよく過ごせる」ために小さいけれど具体的な決心が出てくるのでしょう。心と心がつながった、気持ちの良い生活をスタートさせましょう。

過去の記事(中学生へ)

指導司祭:硲恵介

平成28年度
3月の説教

 「あなたは塵である!」、これはドキッとすることばです。人に向かって「塵である」とは何事だ!と怒られそうですが、これはカトリック教会で行われるある式で公に宣言される言葉なのです。それは「灰の式」と呼ばれるもので、今年は3月1日に行われました。この日は「灰の水曜日」と呼ばれ、その中で「灰の式」が行われます。それはどんな式なのでしょうか?
 それは私たち人間の避けられない運命を思い出すためのものです。例外なく私たち全員が通る道は「死」というものです。私たちはみな、いつかこの地上での最後の一日を迎えます。カトリック教会はその長い伝統の中で、「メメント・モリ(memento mori)、死を思え」という言葉を使ってその現実を思い出すように励ましてきました。それは不吉なこと、不幸なことという一般的な見方のさらに向こう側に目を向けることを促す言葉です。私たち人間は限りある命を、手で触れることができるこの肉体だけではなく、目に見えない精神あるいは魂というものとともに持っています。精神あるいは魂はなくなってしまうことがありません。つまり肉体は滅びても魂は永遠に生きるといえます。カトリック教会は毎年この季節に「灰の式」を通じて、生前に行った善い行いについての報いである天国というものを思い出すように人々に促すのです。そして、「灰の水曜日」から(日曜日を除いた)40日後にイエス・キリストの受難と復活という一大イベントを記念する聖週間というものがやってきます。
 3月は節目の季節です。これまでの一年間が終わり、新しい学校生活が始まるこの季節、さらに大きな節目となる最後の一日のことに思いをはせるのは大変価値あることだと思います。限りある命だからこそ今が重要であり、私たちは毎日を充実させていかなければいけないことが実感できるからです。

2月の説教

 2月になりました。先月つまり1月(時がたつのは早いものですね!)にもっともよく人々の口に上った挨拶の言葉は「あけましておめでとうございます」でした。「あけまして」は通常「明けまして」の漢字を用いると思いますが、ある人は敢えて「空けまして」という漢字をあてていました。その心は、「空っぽのほうがよく響く。」ということでした。なるほど!と感心させられました。私たちの心の中には色々な不安や心配事があるもので、どうしてもウジウジしたり、悶々としたりしてしまうものです。いつの間にかそんなもので心がいっぱいになっていることもよくあります。それらを気前よく空っぽにすること、つまり神さまの手の内にすべて委ねてお任せすることを心がけてみましょう、ということかなと私は解釈しました。空っぽになっておめでとう!なかなかいい言葉だなあと思います。
これをきっかけに思い出したのが聖書のあるエピソードです。福音書を開くとイエスキリストが当時の人々に語った数々のお話に触れることができますが、「なるほど!」と思うこともあるし、「うーむ、どういう意味なのだろう…?」と頭をかかえてしまうこともあります。イエスさまのなさった『山上の説教』(マタイ5章)というものは、パッと読むとまったく意味が分からないものの一つです。こんな内容です。『心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。(…)私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。』 イエスさまは、心の貧しい人は幸せな人だと教えています。心が貧しいということは、心が空っぽということで、心配事や不安で心をいっぱいにしてしまわない人のことなのではないでしょうか。
マリアさまもやはり心の「空っぽ」な方だったと言えます。何事も神さまにお任せしながら、精いっぱい自分にできることをされてきたマリアさまでしたので、天使のお告げを受けた時も「私は主のはしためです。あなたの御言葉のとおりになりますように!」と言うことができたわけです。「空っぽ」のマリアさまの心に天上の音楽が美しく響いているような感じです。「空っぽ」だからこそ、バイオリンもチェロもピアノも美しい音色を奏でることができます。ぜひ、不安や心配事をわきにおいて、「空っぽ」になった心で過ごしていきたいですね。そのための秘訣は、やるべきことを、やるべきときに、しっかりと果すこと。そう、英雄的瞬間を生きることです。チャイム着席、宿題をしっかりやること、提出物を期限の来る前にきちんと出すこと、そういった小さなことをしっかりと大切にするのです。そうすると、不思議と不安や心配事が心の中にたまっていきません。軽やかな心で過ごせるものです。皆さんもぜひ試してみてください。

1月の説教

 新年あけましておめでとうございます。
 さて、先日テレビのニュースを見ていたらとても興味深い話に出会いました。それは、43歳になった今も大リーグで活躍しているイチロー選手の言葉でした。日本のある町で少年野球の大会を主催されているようですが、その閉会式で少年たちに語った言葉です。「イチローは人の2倍も3倍も頑張っているという人が結構います。」うん、確かに。それを本人はどう思っているのかな?と興味がわきますよね?そして彼は続けます。「でも、人の2倍とか3倍頑張るってこと、できないよね。」確かに!2倍も3倍も頑張るというのはなんとなく耳当たりの良いフレーズだったけれど、そんなに頑張ることはとてもできないことに思いが至ります。私には人の2倍も3倍も時間があるわけでもないし、気力があるわけでもないという現実に気が付かされます。さて、ではイチロー選手は子供たちに何を伝えるのでしょう?「頑張るとしたら、自分の限界。みんな自分の限界は知っているでしょう?その時に、もう少しだけ頑張ってみるということ。これを重ねていって下さい。」なるほど!とても具体的で、現実的で、自分にもできることだな、と思いました。もうこの辺でいいかというときにもう少しだけ頑張ってみる、ちょっと手を抜きたなというときにもう一度心を込めてみる、誰も見ていないからいいかというときに神さまのことを思い出して丁寧にやり直してみる、などなど、一日の間に何度でもチャンスはやってきます。その度に「もう少しだけ頑張ってみよう」と限界を超えていくならば、とても大きな喜びとか達成感とか心の落ち着きなどが得られると思います。それは、隠れているものを見ていて下さる神さまからのプレゼントのような気がします。
新しい一年が始まりました。日常の小さなことを少し頑張ってみる、すると自分も成長するし、周りの人を喜ばせることもできる、さらには神さまをお喜ばせすることもできる。そんなことを頭に入れてこの一年間をスタートさせましょう。

12月の説教

 12月となりました。ところで、クリスマスにはなぜクリスマス・ツリーをかざるのでしょう?その起源については様々な説がありますが、次のような物語をある時教えていただいたのでご紹介します。史実ではありませんが、面白い物語です。
 今から二千年くらい昔のことです。べツレへムの近くの丘に1本の木がはえていました。その木は、いつも静かにじっとしていました。多くの動物たちは、その木の下で楽しく遊んでいました。鳥たちも、その木に巣を作ったり枝にとまったりして、幸せでした。木も、たくさんの友達に囲まれて幸せでした。
ところが12月のある日のことです。夜空にとても明るく大きな星があらわれました。動物たちは、「あれはきっと、救い主の誕生を知らせる星だ!」と言っていました。「生まれたばかりのイエス様を拝みに行こう!」と言い、みんなでベツレヘムへ出かけて行きました。木はひとりぼっちになってしまいました。一緒にベツレヘムへ行きたかったのですが、歩くことができません。木は、明るい星を見上げながら、さびしく泣いていました。
ベツレヘムについた動物や鳥たちは、すぐに馬小屋のイエス様を見つけることができました。あの明るい星が、イエス様の場所を教えてくれたのです。馬小屋には、赤ちゃんのイエス様と、お母さんのマリア様、お父さんのヨセフ様も一緒にいました。馬小屋は、マリア様とヨセフ様のやさしい笑顔で、とてもあたたかい場所になっていました。イエス様の周りには、人々が置いていったプレゼントがたくさんありました。動物と鳥たちは、イエス様に歌を歌ってあげたり、踊ってあげたりしました。赤ちゃんのイエス様に会えてとっても幸せだったのです。
すると、マリア様が動物たちに言いました。「みなさん、今日は来てくれてありがとう。みなさんは、お友達ですか?」動物たちは答えました。「そうです。みんな仲良しの友達です。」マリア様が続けて尋ねました。「お友達は、これでみんなですか?」動物たちは、「そうです。みんな一緒に来ましたから、これでみんなですよ」。ところが、鳥が思い出して言いました。「でも、いつもわたしたちを幸せにしてくれる木がここにいません。木は歩くことができないので、一人で丘に残っています。きっと一緒に来たかったことでしょう。」マリア様は、考え込んでしまいました。そして、こう言いました。「かわいそうな木に、どうぞ、このプレゼントを持っていってあげてください。そして、木にこう言ってください。あなたは馬小屋に来ることはできなかったけれど、神様は、あなたのことをちゃんと覚えてくださっていますよ。」動物と鳥たちは、たくさんのプレゼントを持って、丘へ帰っていきました。そして、一人で泣いていた木に、たくさんの飾りをつけてあげました。すると、空から、あの明るい星も降りてきて、木のてっぺんにとまりました。こうして、毎年、クリスマスの頃になると、木は、イエス様のところへ行くことの出来ないかいわいそうな人たちも幸せになれるように、たくさんの飾りと星をつけることにしたのでした。こうして、クリスマス・ツリーは、イエス様を信じる人にも、まだ知らない人にも、すべての人が幸せに過ごせるようにという、しるしとなりました。
 この物語を聞いた私たち一人ひとりが、クリスマス・ツリーのように、人々の中で喜びと平和のしるしとなりますように、と願っています。

11月の説教

 以前こんな話を聞いたことがあります。『あるとき、働き者の靴屋さんのもとへ乞食がやってきました。靴屋さんは乞食の姿を見ると、うんざりしたように言いました。「おまえが何をしにきたか分かっとるよ。しかしね、ワシは朝から晩まで働いているのに、家族を養っていく金にも困っている身分だ。」そして、嘆くように言うのでした。「こんなワシに何かをくれ、くれと言う。そして、今までワシに何かをくれた人など、いやしない…」乞食は、その言葉を聞くと答えました。「じゃあ、私があなたに何かを差し上げましょう。お金に困っているのならお金をあげましょうか。いくらほしいのですか。言ってください」靴屋さんはおもしろいジョークだと思い、笑って答えました。「ああ、そうだね。じゃ、100万円くれるかい」「そうですか、では、100万円差し上げましょう。ただし、条件がひとつあります。100万円の代わりにあなたの足を私にください。」「何?冗談じゃない!この足がなければ、立つことも歩くこともできないじゃないか。やなこった、たった100万円で足を売れるもんか。」「わかりました。では、1,000万円あげます。だだし、条件が一つあります。1,000万円の代わりに、あなたの腕を私にください。」「1,000万円!?この右腕がなければ、仕事もできなくなるし、かわいい子どもたちの頭もなでてやれなくなる。つまらんことを言うな。1,000万円ぽっちで、この腕を売れるか!」「そうですか、じゃあ1億円あげましょう。その代わり、あなたの目をください。」「1億円!?この目がなければ、女房や子どもたちの顔も見ることができなくなる。駄目だ、駄目だ、1億円でこの目が売れるか!」すると乞食はいいました。「そうですか。あなたはさっき、何も持っていないと言っていましたけど、でも本当はお金には代えられない価値あるものをいくつも持っているんですね。しかも、それらは全部もらったものでしょう…」靴屋さんは何も答えることができず、しばらく目を閉じ、考えこみました。そして、深くうなずくと、心にあたたかな風が吹いたように感じました。気が付くと乞食の姿はありませんでした。』
 実は私たちもこの働き者の靴屋さんと似ているところがあるのではないでしょうか?たくさんのものに恵まれているのに、それに気づかず文句ばっかり言ってしまうことがあります。当たり前だと思っていることが、実は当たり前ではない、ということに気がついて感謝できればこんなに素晴らしいことはありません。11月はカトリック教会では伝統的に「死」について考えていきます。それは「命」について考えることにつながります。私たちに与えられた「命」の有難さについて、ゆっくりと考える月にしたいと思います。 

10月の説教

 昔、次のような逸話を聞いたことがあります。かつてアレキサンダー大王という偉大な王がいました。彼は地中海地方でその勢力を伸ばし、戦いに次々と勝って諸国を征服していきました。あるとき、いつものように勝利を収めた大王の一軍が帰路についていたとき、道端で哀れな乞食が物乞いをしているのに目をとめます。大王がこちらを見ているのに気がついたこの乞食は「この時しか無い!」と思い、施しを願います。馬から降りたアレキサンダー大王は乞食に近づき、今しがた征服してきた街々の名を挙げ、言いました。「ひとつ街を選べ。お前をその街の責任者にしてあげよう。」乞食は驚き、震えながら言いました。「王様、私はただわずかばかりの施しを願いました。ほんの少しのお金をいただければそれで十分なのです。」それに対して、王は答えます。「驚くことはない。お前は一人の乞食として私に願った。そして私は、一人の王としてお前に与えるのだ。」
この話を聞いたとき、私はとても強い衝撃を受けました。このようなものの見方には気づかなかったからです。乞食は、日々の食べ物にも困る乞食として施しを願いました。そして、アレキサンダー大王は、諸国を支配する偉大な王として寛大に与えました。それぞれの身分に相応しく、この二人は振る舞ったわけです。
 さて、突然話は変わるのですが、10月2日は聖ホセマリアがオプス・デイを創立した記念日です。それは1928年の出来事でした。その時以来、この地上に新しい道がけました。聖ホセマリアの祈りのカードで唱えるように、「日常生活の各瞬間と、あらゆる状況を、主を愛する機会とする」こと、つまり、毎日のごく平凡で一見つまらないことを、丁寧に心を込めて果たしていくことによって、すべての人は聖人(天国に行く人)になれるということでした。なぜなら、私たちは神さまの子どもなのだから、と聖ホセマリアは教えます。私たちは神さまの子どもである、そんな自らの身分を考えたことがあるでしょうか。すごいことです。そして、私たち一人ひとりは、この「神の子である」という身分に相応しく振る舞っていくことで、本当の幸せを味わっていくでしょう。そのためにまず、「神の子である」という自覚を深めたいと思います。

9月の説教

 今年の夏は本当に酷暑でした。クーラー無しでは知的作業(勉強・読書・仕事など)は不可能だという日が何日あったことか。空調のなかった昔の時代の人はすごいなあと感じたものです。そんな夏も一段落して、9月になってからはその酷暑もだいぶ和らいできました。
 さて、今月4日、ローマでは何十万という人が世界中から集まる大きな行事が計画されています。それは、マザーテレサの列聖式です。2003年の列福後に新たな奇跡が認定されて、死後19年を経た今年、マザーテレサは教会により聖人と認められることになりました。日本では0.5%に満たないカトリック信者ですが、マザーテレサの名前はとても多くの人に知られています。テレビでもこれまで何度も特集が組まれていますので、日本で一番有名なカトリック信者とも言えるでしょう。
 そんなマザーテレサについてちょっと調べてみようとインターネットで検索してみると、驚いた結果になりました。検索上位10件の半分以上はマザーテレサを批判する内容のサイトが占めていたのです。驚くと同時にとても残念で悲しい気持ちになりました。どんなに良いことをしても批判する人は跡を絶たないのだなあと。
 マザーテレサがこの現状をみたらどうおっしゃるだろうと考えてみました。彼女もやっぱりがっかりして肩を落とすでしょうか?
 きっとそうはしないはずです。その答えになるような彼女自身の言葉に出会いました。
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人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと、 利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい

目的を達しようとするとき、 邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい

善い行いをしても、 おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい たとえそれが十分でなくても
気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい

『最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、
 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
 あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。』
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 他人がどう言おうと、「気にすることなく、あなたの最良のものを与えなさい」、そのように私たちを励ましてくれるでしょう。そんな温かなマザーテレサの言葉をじっくりと味わってみたいと思いました。

7月の説教

 一学期も終盤を迎えています。テストが終わり、あとは有終の美を飾るという大仕事が待っています。最後まで気を抜くことはできません。そして、7月は夏休みの始まる月でもあります。心待ちにしている人も多いことでしょう。長期休暇のあるこの夏の期間、私たちはいろいろなことに挑戦することができるでしょう。ダラダラ過ごすのではなくまずは決めた時間にしっかり起きること。そして確保した時間でいつもはできていなかった読書や体を鍛えるトレーニングなどに挑戦していくこともできるでしょう。40日という日数は、何か小さなことを成し遂げるにはちょうどいい期間です。例えば40日間毎日ストレッチの体操をしていけば、40日後には驚くほど体が柔軟になっているはずです。そしてそれをきっかに怪我をしにくい体になっていくでしょう。大きな変化の糸口は、小さなものです。神さまとの付き合いにおいても同じことが言えます。朝起きた時、神さまに「今日一日を与えてくださってありがとうございます。」と祈り、夜寝る前に「今日一日こんなことで上手くできました(あるいは、できませんでした)。明日はもう少し充実させたいと思います。助けをお願いします。おやすみなさい。」と祈る。短いけれども心のこもった祈りを毎日捧げることができるなら、夏が終わる頃には大きな変化にきっと自分自身が驚くはずです。そんな成長を実感する夏にしていきたいと思います。

6月の説教

 気がついた人がいるかもしれませんが、ここ数日間お御堂の祭壇の上には、普段はあまり見慣れない美しい切り花が飾ってあります。これにはどんな意味があるのでしょうか?それを解き明かすカギは、5月の最後の日曜日にカトリック教会で祝われたご聖体の祝日にあります。約2000年前のとある木曜日イエスキリストは12人の弟子たちと共に夕食の席についていました。それは彼がこの地上でとった最後の夕食でした。3年ばかりの間12人の弟子たちと寝食を共にし、旅の苦労や出会う人々との喜びや悲しみを一緒に経験してきました。そんな日々も終わりを告げます。翌日にはイエスキリストは十字架につけられて亡くなるのです。その時の夕食は最後の晩餐と呼ばれています。その席でイエスキリストはパンを手に取り祝福して言いました。「これはあなた方のための私の体である。」これが、ご聖体と言われるものの起源です。私たちが目の前にしているものはもはやパンではなくキリストの体である。この事実はイエスキリストの時代であってもにわかには信じられないことでした。多くの人々は「もっとまともなことを言ってくれ!」と嘆いたものです。でも、イエスキリストは決してまやかしを言う方ではないと知っている人々もいました。ご聖体を祝う、それは「キリストの言ったことに賭ける」人々の、とても美しく力強い信仰のあらわれであると思います。

5月の説教

5月になりました。三川の自然の中を歩いていると「5月の香り」がしています。それが何の香りなのかは分かりませんが、何か特定の花の香りではないようです。もっと柔らかで控えめな感じです。三川には竹林がたくさんあるので、若いタケノコの匂いなのかな?と思っています。さて、5月は植物も昆虫も、そして人間も新しい環境でグーンと成長していく時期です。生命が躍動すると言えるこの季節、わたしの頭に思い浮かんでくるひとつの言葉があります。それは、聖ホセマリアが著書『道』の中で語っているもので、次のような一文になります。『あなたの一生が無益であってはならない。役に立つ何かを残しなさい。』そう、私たちが生きているこの時間は二度と繰り返されません。だから、日々を大切にしながら充実させていきたいものです。私たちに与えられた時間や才能を無駄にせず、将来人々や社会に貢献できるように精一杯活用していきたい、そんな決心を新たにする5月にしたいと思います。

4月の説教

春は喜びの季節です。それは学校の周辺にある自然を見ていても感じられます。3月の下旬にはマリア様の像のあるブランコ広場のソメイヨシノが満開になりました。今はグラウンド下の八重桜がはちきれんばかりに咲き誇っています。小学校校舎に行く途中の藤棚には香り高い藤の花とともに、ハチがブンブンと飛び回っています。生命の躍動する季節が春だなあと実感します。ところで、カトリック教会でも春は大きな喜びの季節で、「アレルヤの祈り」というこの時期限定の祈りを唱えています。アレルヤとは、「主をほめ讃えよ」を意味するヘブライ語(イスラエルの民の言葉)から来ています。この時期、カトリック教会ではなぜそこまで「アレルヤ!」と言って喜びを表現するのでしょうか?それは、いまから約2,000年前の出来事に遡らなければなりません。地中海の東の沿岸付近にあるエルサレムという町で起きた出来事です。それは十字架の上で非業の死を遂げたかに思われたイエス・キリストが死者のうちから復活したという出来事です。「そんなばかなことがあるものか」と言って聞く耳を持たない人もたくさんいましたが、その教えは着実に広がり、長い年月を経てこの精道学園にもその教えが届いています。カトリック教会の希望や喜びの源は、死者のうちから復活したイエス・キリストなのです。
 この春、みなさんは特別な思いを胸にしてこの学園での学校生活をスタートさせたことでしょう。どうかこの一年がみなさんにとって、希望と喜びに満ちた、実り多いものとなるように祈りたいと思います。

平成27年度
3月の説教

 3月は年度末、締めくくりのときです。よい形で終わり、次へのスタートを準備するときと言っても良いでしょう。そのとき必要になることがあります。それは気持ちを前に向けること。もっと具体的に言えば、感謝の心を持つことではないかと思います。
 聖ホセマリアの著書『道』に次のような言葉があります。「毎日、幾度も心を神に上げて感謝するくせをつけよう。神があれやこれやをくださるから、軽蔑されたから、必要なものにも事欠くから、あるいは必要なものはちゃんとあるから。」(『道』268より)。良いことに感謝するのは理解できます。しかし、軽蔑されたら悲しくなり、必要なものがなければ困ります。一見して良いとは思えないことにもなぜ感謝することができるのでしょうか。そんな疑問がわいてきますが、答えのヒントになるような詩に出会いました。「まばたきの詩人」と呼ばれる水野源三氏の詩を読んだのです。水野さんは9歳の時に赤痢にかかり、脳膜炎を併発してその後遺症のために手足の自由を奪われ、ついには話すこともできなくなります。しかしある時友人から聖書を読み聞かされ次第に周りの人がびっくりするほど明るくなります。やがて水野さんは詩や短歌を作り始めました。お母様が五十音表を示し、水野さんがまばたきで合図して音を一つ一つ拾い、書き表していくのです。そんな水野さんが作った詩が「有難う」です。有難う/物が言えない私は/有難うのかわりにほほえむ/朝から何回もほほえむ/苦しいときも 悲しいときも/心から ほほえむ。おそらく水野さんは、声に出して感謝を伝えたかったでしょう。お母さんがご飯を作ってくれた時、ご飯を食べさせてくれた時、汚れた服を替えてくれた時、などなど。朝から晩まで「有難う」と言いたいことはたくさんあったでしょう。そうして彼は一所懸命微笑んでいました。
 軽蔑された時、私にはもっと謙遜になる機会が与えられました。必要なものに事欠くとき、当たり前だと思っていたものが当たり前でないことに気づく機会が与えられました。それらを一つ一つ、心静かに神さまの前で思い出すとき(つまり祈るとき)、私たちは一日の間に何度も感謝すべきことに出会っていることに気がつくものです。 

2月の説教

 前回は、2016年の元旦に出された教皇フランシスコの「平和へのメッセージ」を紹介しました。そのメッセージの力強さ、つまり、困難を前にしても決して諦めたり愚痴をこぼしたりすることなく、常に希望を持って将来への展望を示される教皇様のパワーに驚かされました。さて、今日はそんな教皇フランシスコの別のメッセージを皆さんに紹介したいと思います。
 昨年の3月13日、選出から2年を迎えた教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で行われた四旬節(注:イエスの十字架での苦しみを黙想する40日間)の回心式において、2015年12月8日から2016年11月20日までを「いつくしみの特別聖年」とすることを宣言し、4月には大勅書も発表されました。(インターネットで「いつくしみの特別聖年」「大勅書」「ダウンロード」と検索すれば入手できます。)この文書は次の言葉で始まります。「イエス・キリストは、御父のいつくしみのみ顔です。」困難や苦しみを前にして、肩を落として歩くことは私たちには相応しくない、なぜなら十字架で亡くなって3日後に復活されたイエスさまが神さまのいつくしみや苦しみの持つ意味を教えてくださったのだから。イエスさまのことをもっと黙想しましょう。それが教皇様のメッセージの核心ではないかと思います。「ナザレのイエスは、その言葉と行い、そして全人格を通して神のいつくしみを明らかになさいます」(上記文書より引用)、このように仰って教皇様は私たちの目をイエス・キリストへと導くのです。そして私たち一人ひとりが神のいつくしみを味わうようにと勧められます。ではどうやってそれを味わうことができるのでしょうか?いろいろな方法があるかとは思いますが、ひとつは、まず私たちがゆるし、ゆるされることを体験することによってではないかと思います。私たちが誰かのことをゆるすことができるのであれば、トゲトゲしたものがなくなり、そこに暖かさが生まれるでしょう。その暖かさは、別の誰かの頑なな心を溶かしていくことができると思います。そうやって少しずつ私たちの身の回りで、ゆるし、ゆるされることが体験されれば、そこにいつくしみが溢れてくるのではないでしょうか。大げさなことではなく、小さな身近なところで誰かをゆるす、そうすることによって私たちはイエス・キリストと日常生活の中で出会っていくように思います。

1月の説教

 皆さん、あけましておめでとうございます。さて、今日は新年にあたって、皆さんにぜひ紹介したいと思った記事についてお話をします。それは、カトリック教会のフランシスコ教皇様が今年の元旦に出されたメッセージで、その中で教皇様は世界の平和について語りました。2015年の世界情勢を振り返った時、残念で悲しい出来事がたくさんあったということは誰の目にも明らかです。教皇様もハッキリとそれを認識しておられます。でも教皇様は力強く言います、「人間には、神の恵みのもとに、悪に打ち勝ち、あきらめと無関心に陥らない力があります。人間は危機的な状況に直面しても、個人の利害を超え、無感動、無関心を克服して連帯する力を持っているのです」と。確かに、難しい状況を前にした時、私たちには2つの異なった態度をとることができます。ガックリと肩を落として悲観してしまうのか、あるいは、奮起して立ち上がるのか。教皇様は後者を取ります。でも、なぜがっかりせずに困難に打ち克つことができると言えるのでしょうか?それは根拠の無い虚しい言葉なのでしょうか?そうではなく、現実に即してそう言えるということなのです。例えば、今年の9月に列聖されることになったマザー・テレサのことを考えれば分かります。たった一人で始めたインドでの慈善の行いが、いつしか世界中の人々にも知れ渡り、1979年にはノーベル平和賞を受賞するまでに至りました。彼女は世界を変えたと言っても過言ではありません。そして、マザー・テレサは非常に例外的な聖人なのかというと、そうではないと思います。実際に、個人の利害を超えて人道的な働きをしている人々やNGO団体がたくさんあります。光を探そうとするのであれば光に出会うことができるのです。では、平和の実現を邪魔していのは何でしょうか?それは、「侮辱を与えることになる無関心、心を麻痺させて新しいことを求めさせないようにする惰性、破壊をもたらす白けた態度」であると教皇様は指摘しています。これは驚くほど私たちの生活の身近なところにあることです。凶悪なテロリストは隣にはいないかもしれませんが、無関心や惰性、あるいは白けた態度などは、もうすでに私たちの心のなかに入り込んでいるかも知れません。そして、このような態度は世界の平和に対する最も厄介な敵になる、と教皇様は私たちに語りかけています。世界の平和というと、何だか自分には手の届かない理想について語っていると思われがちです。でも、そうではない、私たちの心のなかにすでにその解決のためのいとぐちがある、と教皇様は言われているのです。その通りだな、と私は納得したのですが、皆さんはいかがでしょうか?今年一年、少なくとも私の心の中から「無関心・惰性・白けた態度」を追い出すように努めよう。新年を迎え、そう決心しました。

12月の説教

 12月になりました。街を歩くと、クリスマスのイルミネーションが美しく輝いています。大きな商業施設に行けばクリスマスソングがBGMとして流れ、いたるところにサンタクロースが立っています。華やかな雰囲気は心を浮き立たせますし、12月25日の夜を待ち遠しく思っている人もたくさんいることでしょう。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみたいのは本当のクリスマスについてです。英語で正しく表記すると「Christmas」となります。それは、キリストのミサという言葉です。ミサはキリストが行ったこと、特に十字架上で行ったことを記念し再現することで、教会で行われるミサの中で人々は神さまを礼拝し感謝の祈りを捧げるのです。ですから、「Chirstmas」はキリストへの礼拝と感謝、という意味に捉えることができるでしょう。そのようなわけで、本来のクリスマスはキリストの誕生、神のひとり子キリストの誕生を思い起こす日であることがわかります。主役はサンタクロースではなく、小さな赤ちゃんとしてお生まれになったイエス・キリスト、そしてその母親であるマリアさまであると言うことができるわけです。日本ではまだまだですが、キリスト教がしっかりと文化に根ざしている国々では、イエス・キリストが誕生した馬小屋を再現したものを教会や各家庭のリビングなどに飾ります。ローマにあるバチカンの聖ペトロ大広場では実物大以上の大きな馬小屋が建てられ、そこを訪れる多くの人が約2000年前のベツレヘムでお生まれになった幼子イエスに思いを馳せるのです。
その他にも面白い事実があります。クリスマスツリーのてっぺんには大きな星を飾りますが、あれは、イエスの誕生の時に天上に輝いた星を表しており、ツリーに使われるモミの木は常緑樹で冬でも葉を落とさないことから永遠の命の象徴、つまりイエス・キリスト自身の象徴となっているそうです。ツリーの飾りとして使われるりんごの実はアダムとイブが食べてしまった禁断の樹の実を表し、とげを持った緑の葉のヒイラギは十字架につけられる前にイエス・キリストが頭につけられたいばらの冠を象徴しているとのことです。ちなみに、サンタクロースの元となっているのは4世紀の実在の人物である聖ニコラス(英語ではSaint Nicholas、セントニコラスが変化してサンタクロースとなった)と言われています。
 プレゼント交換をしてケーキを食べてお祝いをするのも素晴らしいのですが、こうして本来の意味であるキリストの誕生に思いを馳せるとき、クリスマスはより美しい輝きを放つのではないでしょうか。

11月の説教

 数年前、私はイタリアのローマで司祭になるための勉強をするために留学をしていました。毎朝大学に通っていましたので、ローマ市内をよく歩いたものです。石畳の町並み、長い歴史を持った教会や遺跡がここかしこにある魅力的な町でした。そんなある日、いつものように大学の授業が終わり家路に向かっているとき、目を丸くするような光景に出会いました。それは、100台に迫ろうかというランボルギーニ社製の真新しいスーパーカーの集団でした。かの有名なバチカンの聖ペトロ大聖堂の前に伸びる大通りを、一台数千万円はする超高級スポーツカーの数々が占拠していました。ある車はアクセルを空ぶかししながら爆音をあげています。「うわっ、すごい!」と興味津々でその光景を見ていました。周囲には当然、人だかりができています。その視線の先には、誇らしげに車の傍らに立つオーナーたちがいます。そんな人々の視線をあまり意に介さないかのように振舞いながら、ギンギラギンというに相応しい服装のオーナーたちは談笑していました。そんな光景を少し見ている内に、何だか興が冷めてきました。そしてそっとその場を後にしました。
 『真理はあなたたちを自由にする』という言葉が聖書にはあります(ヨハネの福音書8章32節)。私にはその言葉が非常に強く心に残っています。誰しも、自由になりたいものです。そのためには、自分の思うままにできる時間やお金がどうしても不可欠だと考える人がいるかもしれません。しかし、それらを持っている人がほんとうに自由なのでしょうか?もしそうなら、忙しくて時間のない、そして経済的にも余裕のない多くの人は自由になれないのでしょうか?あのローマでの光景を思い出すにつけ、そんなことを考えてしまいます。そして、「いや、決してそうではない。人であるかぎり、自由になる道が皆に等しく開かれているはずだ。」と思わざるをえないのです。そして、その自由になる道というものは、『真理』に触れることなのではないかと。
 カトリック教会では、11月には特に亡くなった人を思い出し、彼らのために祈ることを奨励しています。皆がこの世を去っていくということは、避けようのない『真理』です。そして、カトリック教会はこの世の後には永遠の生命があることを教えています。別れという悲しみの向こうに、永遠の喜びという光が亡くなった人々を包んでいるわけです。こうして、死という鎖から解き放たれ、ほんとうの自由を得られるのではないかと感じています。『真理』を探求することで、私たちは日ごとに自由になっていくのではないでしょうか。

10月の説教

「人生、山あり、谷あり」。私たちは皆、この言葉をどこかで一度は聞いたことがあると思います。良い時もあれば悪い時もある。けれど、それらをすべてひっくるめて豊かな人生が開けてくるよ、というニュアンスで使われるかと思います。それを改めてハッキリと思い出させてくれるような、すごい話を耳にする機会がありました。
 1962年、アメリカ、マサチューセッツ州で一人の赤ちゃんが生まれました。名前はリック・ホイト君。でも、生まれる時にへその緒が首に巻き付いており、脳性麻痺、痙性四肢麻痺という重大な障害が残ってしまいました。手も足も動かせない状態でした。生後9ヶ月の検診のとき、「一生、寝たきり、植物状態のようになるでしょう。施設に入れなさい。」、そう医師から宣告されます。しかし両親は、「自分たちが諦めてしまったら、この子に明日はない」と自分たちで育てる決心をします。そして、愛情深く育てているうちに、この子にも意思があり、気持ちを伝えることができると発見します。そんなリック君が15歳の時、彼らの住む街で、あるチャリティーランが催されました。事故で身体が麻痺してしまったラクロス選手のための8kmのレースでした。それを知ったリック君が言いました、「お父さん、僕もチャリティーランに参加したい!」。お父さんは、まさか!と思いました。運動なんて全くしてこなかった自分、太っていたし、1kmであっても走ることはできそうにありませんでした。「どうやってこんな自分が、車いすの息子を押して8kmもの距離を走れるだろうか…。」父親は悩みます。でも、ケガで苦しむ誰かのために自分も何かをしたいという息子の強い気持ちを知り、決意します。翌日からトレーニングを開始。その日までスポーツなどしたことのない38歳の男が、アスリートのように肉体を鍛え始めます。そして、大会当日、彼は総重量65kgにもなる車いすを押してひた走り、完走します。無事にゴールした時、息子は、「まるでひまわりのような笑顔」(このように後日お父さんが表現しました)で言ったのです、『父さん、一緒に走っている間、僕、自分が障害者じゃなくなったような気分になったよ!』。それ以来、彼の人生は変わります。1kmも走れず、ほとんど泳げず、6歳の時から自転車にも乗っていない中年の男が、ただ息子の笑顔のために、トライアスロンにも挑戦するのです。ゴムボートに乗せた息子を引っ張ってスイム4km、自転車のハンドルバーに設けた特別の椅子に息子を乗せてバイク180km、そして車いすの息子を押してラン42.195kmを走り切るのです。16時間14分の親子のレースでした。見事にそれを成し遂げたのです。ゴールには家族全員が駆け寄り、皆で涙を流し、抱き合いました。

 困難を前に、私たちには2つの態度を取ることができるでしょう。諦めてしまうか、あるいは、立ち向かうか。愛が心の中にあるのなら、私たちは後者を選ぶことができるでしょう。愛とは、他者への優しい気持ち。もちろん、神さまに愛を向けることもできます。それを私たちは、日常の小さな行いを通して表していくことができるのです。「人生は、山あり、谷あり」。愛に動かされた時、私たちは前進し、困難を乗り切って成長していくでしょう。
 ちなみに、このリック君にあるとき、インタビュアーが聞きました。「君の夢は何ですか?」彼は答えました、「一度、父を車いすに乗せて押してあげたい。」と。
(本文は、中井俊已氏『心の糧・きっとよくなる!いい言葉』を参考にしました。http://archives.mag2.com/0000141254/20151009070000000.html )

9月の説教

 2学期が始まりました。こうして皆がお御堂に集まって、御聖櫃の内にいらっしゃるイエス様の前で、「この2学期を充実したものにしよう!」と各自が心のなかで決意を新たにするのであれば、それは神さまが本当にお喜びになることでしょう。
 新年度が始まった4月から数えて、すでに5ヶ月が経ちました。学校生活の中、そしてクラブ活動の中で、自分の立場というものにもだいぶ馴染んできたことでしょう。新たな環境に馴染んでいくには大変なエネルギーが必要なものです。それをクリアーした皆さんは今、飛躍の時に差し掛かったと言ってもいいでしょう。全てのエネルギーを更なる成長のために注ぎ込む時期です。
 ところで、以前どこかで読んだことですが、世界で活躍するイチロー選手がある時のインタビューで次のように答えていました。所属するチームの地元にある小学校に招かれて講演をした時のことです。「大リーグで活躍するには、何が一番大切ですか?」このような問いに、多くの人は、イチロー選手独自のトレーニング方法や健康管理などについて話が聞けるのではないか、と期待を抱いたことでしょう。そして、それを見事に裏切ったのが彼の答えでした。---「バットを地面に置かないこと。」---。「え?」と思ったとしても不思議はありません。全く予想していていなかった答えですから。彼は唖然とする人々を前に続けました。「芝生の水をバットが吸うと、何億分の一かの変化があって、バッティングが変わってしまう。そして、それ以上に、お父さん、お母さんが買ってくれた道具を大切にして、バット、グローブを磨くことです。」
 さすが。脱帽するしかありません。自分を支えてくれる多くの人に感謝しながら、小さなことを大切にすることの重要性を教えてくれます。小さなことを大切にする、これを実践したのは、実はイエス様も同じです。彼は33年間の生涯をこの地上で過ごしました。そのうちの30年間はナザレトの小さな村の大工として生活したのでした。目立たない、誰からも注目をされることのない、一見するとつまらないことの連続する毎日でした。その準備期間をもとにして、最後の3年間の宣教生活がありました。
 私たちの身の回りにあること、それはどちらかと言うと大きなことではなく小さなことの連続でしょう。毎日の宿題、係の仕事、体育祭の応援の練習、授業の開始時刻に遅れないこと、提出物を期限までに出すこと、等など。それらの一つひとつは、大きなものではないでしょう。しかし、それらを責任感をもってきちんと果たしていくこと、そうすることによって大きな飛躍というものが訪れるのではないでしょうか?9月のモットーは責任感ですね。任された小さなことの偉大な価値を知る機会になるようにと祈っています。

7月の説教

 今月のモットーは友情です。友達の大切さ、友情のありがたさは、我々みんながよく知っていることでしょう。でも、さらに一歩踏み込んで「本当の友情とはなんだろう?」と考えてみたいと思います。
 休み時間に一緒にいることや、同じ趣味を持っていたり、同じクラブに所属していることによって友達になっていくのは事実でしょう。でも、「休み時間にいつも一緒にいるから」、「同じ趣味を持っているから」、「同じクラブに入っているから」友人であり、友情を持っているとはならないものです。それはあくまで一つのきっかけであり、それが友情であるかどうかは別の問題であるというわけです。本当の友情は何かの状況に置かれたところに自然発生するようなものではなく、当人同士が育んでいくものです。聖書の中で、イエス様は次のように言いました。『友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はない』(ヨハネ15章13節)。命、即ち自分にとって大切なものをある人のために差し出すことによって愛(ここでは友情)が育っていく、という意味に理解することができると思います。自分にとって大切なもの、それはたとえば、「時間」であり、「心」すなわち「心遣い」や「思いやり」などではないでしょうか。命を差し出すような場面はおそらくやってこないでしょう。しかし、誰かのために少し時間を割いて手伝ったり、一緒に仕事をしたりすることは一日の中でも頻繁にあるでしょう。そこに少しの「心遣い」や「思いやり」を加える事によって、我々の周りに友情というものがグングンと成長していくのではないかと思います。我々の過ごす日常の小さな出来事の中に、実はとても価値あるものが隠れていることに気づいて、それを大切にしていくこと、そんなことを頑張れたら素晴らしいと思います。

6月の説教

 5月は聖母マリアの月と紹介しました。では、6月は何の月、ということができるでしょうか?それは聖ホセマリアの月、ということになるかと思います。1975年6月26日、夏の気配が色濃く感じられるようになった暑い日でした。外出先で気分が悪くなりローマの自宅に戻ってきた直後に気を失われました。緊急のさまざまな手当にもかかわらず、意識が戻ることはありませんでした。ホセマリア・エスクリバー神父様の帰天は多くの人の心に深い悲しみを引き起こしました。世界中のたくさんの人々に多くの励ましと助言、助けを与えていたからでしょう。
 あまり意識していないかもしれませんが、実は私たちも聖ホセマリアのお蔭でここにこうして集まることができています。それはどういうことでしょうか?ここにいる我々は一人として彼に個人的に会ったこともなければ、直接声をかけてもらったこともありません。「お世話になったことはありません」ということができるかもしれません。でも同時に、次のことも事実なのです。もし彼がいなければ、この学校は存在しませんでした。つまり、ここにこうして集まっている私たちも一緒になることは決してありませんでした。学校に御聖堂があり、そこで祈りがあり、ミサがあり、宗教の授業があり、学校内に司祭が歩いているというちょっと変わった学校ですが、これは聖ホセマリアの精神を受け継いだ精道三川台ならではのことです。「すべての人が、日常生活において、専門の仕事を通して聖人になることができる」、これが聖ホセマリアの教えでした。それを、自らの生涯を通して、各瞬間ごとに実行したのが聖ホセマリアの一生でした。その教えを受け継ぎ、我々もそのような生き方をたとえ一部分であっても真似をしていこう、学んでいこう、というのが今ここに集まっている私たちの使命ではないかな、と思います。
 聖ホセマリアの人生は必ずしも安易なものではありませんでした。というより、いつもたくさんの難しい状況や出来事に取り囲まれていたと言ったほうが正確かもしれません。でも、彼は決して落胆することはありませんでした。諦めてしまうこともありませんでした。それは、日々の小さなことの中に、偉大なことが隠れているのを知っていたからでしょう。日々の小さなことを愛をこめて果たしていくこと。それが聖ホセマリアの生き方を私たちのものにしていく一歩目となるように思います。目の前に迫った期末テストの勉強を、いろいろな願いを込めつつ、あの人のためこの人のためと心に念じつつ果たすなら、それは愛をこめて果たしたことになるでしょう。

5月の説教

 5月は何の月と呼ばれているか知っていますか?5月の第2日曜日には母の日がありますね。カトリック教会では、マリア様に捧げられた月である、と伝統的に言われています。では、マリア様とはどんな方でしょう?イエス・キリストの母、つまり神様の母親です。これをギリシア語(新約聖書が書かれた言葉)では「テオトコス」と言います。そして教会の伝統では、聖母マリアは全てのキリスト信者の母、さらには全ての人の母であると言われています。そのように言われる理由は宗教の授業でゆっくり見ていくとして、今日は「母親」ということについて考えてみたいと思います。
 先日、こんな詩を読みました。作者は山田康文くんという15歳の少年です。
  ごめんなさいね おかあさん
  ごめんなさいね おかあさん 
  ぼくが生まれて ごめんなさい
  ぼくを背負う かあさんの
  細いうなじに ぼくは言う
  ぼくさえ 生まれてなかったら
  かあさんの しらがもなかったろうね
  大きくなった このぼくを
  背負って歩く 悲しさも
  「かたわの子だね」とふりかえる
  つめたい視線に 泣くことも
  ぼくさえ 生まれなかったら
1行目からびっくりする言葉ではじまります。この詩を作った山田康文くんは生まれつき全身が不自由で書くことも話すこともできない少年だそうです。ではどうやってこの詩は書かれたのでしょう?それは養護学校の先生が康文くんを抱きしめ、投げかける言葉に対して康文くんの言いたい言葉の場合は康文くんがウィンクでイエス、ノーの時は舌を出すという作業を繰り返して出来上がりました。出だしの「ごめんなさいね おかあさん」だけでも1ヶ月もかかったそうです。この詩を受けて、母親の信子さんも彼のために詩を作りました。
  わたしの息子よ ゆるしてね
  このかあさんを ゆるしておくれ
  お前が脳性マヒと知ったとき
  ああごめんなさいと 泣きました
  いっぱい いっぱい 泣きました
  いつまでたっても 歩けない
  お前を背負って 歩くとき
  肩にくいこむ重さより
  「歩きたかろうね」と 母心
  “重くはない”と聞いている
  あなたの心が せつなくて
  わたしの息子よ ありがとう
  ありがとう 息子よ
  あなたのすがたを 見守って
  お母さんは 生きていく
  悲しいまでの がんばりと
  人をいたわる ほほえみの
  その笑顔で 生きている
  脳性マヒの わが息子
  そこに あなたがいるかぎり
なんと美しい言葉のキャッチボールだろう、と心を動かされました。心と心を結ぶ美しい言葉のキャッチボールです。母親への深い思い、子への限りない愛情、こうして母と子の絆はさらに深まっていくでしょう。
 5月は聖母マリアの月。まずは身近な私たちの母親に、「ありがとう」「ごめんね」「おはよう」そんな小さな言葉を大切にしていきながら過ごしていきましょう。それを天の母、マリア様もきっと喜んで見てくださることでしょう。
(本文は中井俊已氏のブログ『心の糧・きっとよくなる!いい言葉』http://archive.mag2.com/0000141254/index.htmlを参考とさせていただきました。)

4月の説教

 新年度が始まって一ヶ月が経ちました。皆さんも新しい環境に少しずつ慣れてきている頃かなと思います。春という季節は、いつも気持ちが新たにされるいい季節です。さて、先日とてもいい光景を目にしました。放課後、おそらく新入生と思われる生徒がクラブに初めて参加しようとしていた場面だったかと思います。遠目にも、「まだどうしていいのかわからないんだろうなあ。」ということが見て取れました。すると、上級生と思われる人がおもむろに彼に駆け寄り、そして「こっちだよ、荷物はこうするのだよ。」と教えてあげている様子でした。だいぶ離れて見ていたので会話まではわかりません。でも、暖かく迎え入れている様子はハッキリ伝わってきました。クラブに参加している生徒には、運動部ならその競技、文化部なら活動の対象に対する情熱(パッション)があります。そして、その情熱を共有する仲間が新しく加わった時、私たちはその仲間を暖かく迎え入れたいと思うものです。ちょっと拡大して考えてみると、この春に新しい生活、新しい学年を始めた我々は皆、何かを達成しようと情熱を傾けて頑張っている仲間だと言えます。そして、それを一番喜ばしく迎えてくれているのは、天におられる神さまかな、と思います。
 神さまに暖かく見守られながら、この新しい生活を始めたいと思います。

いつくしみの特別聖年、閉幕


2016年11月、特別聖年が閉幕

 カトリック教会では教皇フランシスコの導きで2015年の12月8日から2016年11月20日までの一年間を「いつくしみの特別聖年」と定めました。その目的は、私たちが「神のいつくしみ」をより深く理解し、自分のものとし、実践することにあります。その特別聖年も幕を閉じました。

 キリストは困っている隣人を助けることの大切さと強調しました。そこで教会は最初から慈善の業に励んできました。ローマ時代からどんな宗教の人をも受け入れる病院や救貧施設ができ、修道院は大勢の貧しい人に食事を与えていました。この伝統は宣教師とともに日本にも伝えられました。キリシタンの共同体には「ミゼリコルディアの組」という団体が組織され、貧困者と病人や死刑囚の世話、死者の埋葬などを行いました。長崎のものはとくにめざましい活動を展開したようで、秀吉の禁教令で教会が閉鎖されたときも、ミゼリコルディアの組には手が出されなかったそうです。江戸時代の初期に迫害が激しくなり近畿の信者が津軽に流されたと聞くと、貧しい中から寄付を募り金2千枚を東北の神父に送ったとあります。有名なキリシタン大名、高山右近の領地でもミゼリコルディアの組は盛んで、領主の右近も率先して模範を示し、自ら貧者を訪問し死者の棺桶を担いだそうです。

 カトリックでは伝統的に慈善の業を物的なものと霊的なものに分け次のように示します。前者は「衣食住に不足している人を助け、病人や受刑者を訪問し、死者を埋葬すること」、後者は「子供や教理を知らない人に教えること、不幸な人を慰め励まし、福音の精神をもって社会の改善につとめ、人の悪と不正をいましめ、この世と亡くなった人のために祈ること。また侮辱を赦し、耐え忍ぶこと」です。

 特別聖年は幕を閉じましたが、私たちも普段の生活の中でできるものから実行していきましょう。
(指導司祭 尾崎明夫)

司教協議会のHPへのリンク(さらに詳しく知りたい方はこちらをご覧ください)

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